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Dhammapada 13・14
13
密閉のない屋根は雨をまったく貫通させる、定まらぬ心が容易く外部に染まるのと同じように。
14
密閉された屋根は雨をまったく退ける、定まった心が容易く外部に染まらぬのと同じように。
Yathā agāraṁ ducchannaṁ,
像 屋 惡覆蓋
vuṭṭhi samativijjhati;
雨 完全貫穿越過
evaṁ abhāvitaṁ cittaṁ,
如是 未修習 心
rāgo samativijjhati.
染 完全貫穿越過
Yathā agāraṁ succhannaṁ,
像 屋 善覆蓋
vuṭṭhi na samativijjhati;
雨 不 完全貫穿越過
evaṁ subhāvitaṁ cittaṁ,
如是 善修習 心
rāgo na samativijjhati.
染 不 完全貫穿越過
As rain breaks through an ill-thatched house, passion will break through an unreflecting mind.
As rain does not break through a well-thatched house, passion will not break through a well-reflecting mind.
如蓋屋不密,必為雨漏浸,
如是不修心,貪欲必漏入。
如善密蓋屋,不為雨漏浸,
如是善修心,貪欲不漏入。
うーん? 「心が動く」のは悪くないことではあると思うのだよなあ。「心がぶれる」のと別口と考えた方が良いのか。とは言え「心が動く」とは結局不完全な状態への回帰でしかない、のか。
究極的には死の恐怖からの超越なのだとは思うのだが、死の恐怖から超越された状態でなお心が動かせるようであれば最高なのではないか、と思うのだ。ただそうした仮定を置いてみたとき、心が動けば死への恐怖は超克できない、のかもしれない。それは少し味気ない世界なのではないかと思わずにもおれないのだけれど。
無論ここで言われる、「よく錬り、整えられた心」となれるようには心がけたい。そのための手立てとして修行をする気は無いのだけれど。俗物なので。もちろん何かのきっかけで修行的な方面での修心を望むのであれば、それはそれで素直に受け入れてしまえばいい。望みに対してフタをすることはない。
静かなところで、じっと心を見ましょう。いや騒がしいところにあっても心を見れる境地には至りたいもんですがね。