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Dhammapada 133・134
133
粗暴なる言葉は巡り巡る。他者に掛ければ我が身に戻ろう。発した憤怒の言葉は、やがてそなたの身を打つのだ。
134
割れた鐘のごとく黙して語らざれば、そなたは行き着くべき先にたどり着こう。憤怒もそなたの足かせとはならぬ。
Māvoca pharusaṁ kañci,
不要 對...說 粗 任何者
vuttā paṭivadeyyu taṁ;
說 反駁 你
dukkhā hi sārambhakathā,
苦 確實 憤激 談論
paṭidaṇḍā phuseyyu taṁ.
還擊 觸 你
Sace neresi attānaṁ,
若 不 動 自我
kaṁso upahato yathā,
青銅鑼 全部損壞 像
esa patto si nibbānaṁ,
這 得達 是 涅槃
sārambho te na vijjati.
憤激 你 不 被知
Do not speak harshly to anybody; those who are spoken to will answer thee in the same way. Angry speech is painful, blows for blows will touch thee.
If, like a shattered metal plate (gong), thou utter not, then thou hast reached Nirvana; contention is not known to thee.
對人莫說粗惡語,汝所說者還說汝。
憤怒之言實堪痛;互擊刀杖可傷汝。
汝若自默然,如一破銅鑼,
已得涅槃路;於汝無諍故。
なんかもう未来の格言が全部この中にある感じで笑うしかないですわね……まぁ「誰もが言っているけれども、より表現が洗練された」からこそダンマパダにも同じ意味の言葉がありながらにして未来人の言葉のほうが採用されたんでしょうけど。さすがにダンマパダはこう、何と言うか……表現が基本的に地味。もう少してらってもいいんでない? なのでキャッチーではないんですよね、間違いなく。
だからこそ良い、と言うのもある。後世の様々に洗練された修辞に晒される前の、もっとストレートな言葉たち。もちろんこの言葉たちだって多くの説法、つまり人の目人の耳に晒され続けた言葉たちの集成であり、ここでも「割れた鐘」みたいな修辞は見えるわけだけれども、ただ「現代的な意味での修辞」から見ればとても素朴であり、それがまた良い。まーこの辺は間に挟まってるド修辞文(四六駢儷文)にひーこらしてるからこそ思うことなのかもしれんけど。さすがに現代文も、アレに較べれば地味だは。
とは言え、汚らしい言葉による防壁としての強さを認めねばならない瞬間もあったりはするのだろうな。そういう局面になど出会いたくはないが。まぁほんと、できるだけ自分の中の余計なもんは洗い流しておきたいもんである。なお欲望は俺のコアであるため洗い流しようがないものとする。