Dhammapada 3・4

3
我を罵り、殴り、虐げ、奪うもの。
かれに怨みを抱えれば、怨みの連環は静まらぬ。

4
我を罵り、殴り、虐げ、奪うもの。
かれへの怨みを打ち消せば、怨みの連環も静まろうか。

Akkocchi maṁ avadhi maṁ,
罵 我 打殺 我
ajini maṁ ahāsi me;
勝過 我 竊奪 我
ye ca taṁ upanayhanti,
凡是但是他 怨恨
veraṁ tesaṁ na sammati.
怨 他們 不 被平息

Akkocchi maṁ avadhi maṁ,
罵 我 打殺 我
ajini maṁ ahāsi me;
勝過 我 竊奪 我
ye ca taṁ nupanayhanti,
凡是但是他 不怨恨
veraṁ tes ūpasammati.
怨 他們 被全部平息

"He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,"--in those who harbour such thoughts hatred will never cease.

"He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,"--in those who do not harbour such thoughts hatred will cease.

彼罵我打我,敗我劫奪我,
若人懷此念,怨恨不能息。

彼罵我打我,敗我劫奪我,
若人捨此念,怨恨自平息。


 これを認めていいのだろうか。いや、認めた方がいい、のは、わかる。しかしいま、世界で怒りに対する怒り、憎しみに対する憎しみが実際に渦巻いている中、これを言ってしまうことが許されるのか。無論、それでもなお言えねばならないのだけれど。しかし自分にこれを言い切れる勇気は、ない。

 あえて言えば、他者にとって無価値な存在であること、は目指せるのだろう。価値を飽くまで、自身の中の宝玉として抱える。いや、それも雑念か。ただの枯れた身、枯れた心になるのが良い、と菜根譚は語った。そんな境地を目指せるのだろうか。こうしていにしえのテキストを読み、思考したことを公開された空間に投擲している時点で枯れた心にはほど遠い。

 今はそれでいい、と思うべきなのだろう。

 ひとつひとつを積む。積み上げることで自らの中の執着を脱ぎ捨てられるだろうか。怒りにせよ、喜びにせよ、それは世への執着である。執着があるからこそ人間である。しかし一方で、執着こそが死を恐れさせる。行き着く先の死への恐怖さえなくなるのであれば、そこに怒りがどれだけの意義を持つのだろうか、とは思う。

 怒りや怨み。生きている事への執着に繋がるもの。いつかこの対句たちも実感できるときがくるのかもしれない。今はまだ無理だな、と思う。これを受け入れる境地に行き着いたとき、そもそも何かを書き残すことにすら意味を見出さなくなるだろう。それで良いと思えるならそれで良いのだが、今は良いとは思えない。「良いと思えない」ことを良いと思うのが、まあ、現段階における、せいぜいの処方箋なのだろう。

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