Dhammapada 78・79
78
悪しき者を友とし、下劣なる者と共にあれば、先に進めるはずもない。善き者を友とし、偉大なる者と共にあり、初めて進むことができる。
79
より良き法則に導かれる者は楽しみ、伏しながらにして心を清め、広げる。より良き者の言葉を浴び、より深き境地に赴くのである。
Na bhaje pāpake mitte,
不 前往到 惡 友
na bhaje purisādhame;
不 前往到 人 最下
bhajetha mitte kalyāṇe,
前往到 友 善
bhajetha purisuttame.
前往到 人 最上
Dhammapīti sukhaṁ seti
法喜 樂 臥
vippasannena cetasā.
擴大明淨 心
Ariyappavedite dhamme,
聖者 告知 法
sadā ramati paṇḍito.
經常 喜樂 賢智者
Do not have evil-doers for friends, do not have low people for friends: have virtuous people for friends, have for friends the best of men.
He who drinks in the law lives happily with a serene mind: the sage rejoices always in the law, as preached by the elect (Ariyas).
莫與惡友交,莫友卑鄙者。
應與善友交,應友高尚士。
得飲法水者,心清而安樂。
智者常喜悅,聖者所說法。
79 の漢訳英訳の据わりがあまりに悪く、「これはいったい何なのだ……?」と首をかしげざるを得ない。それにしても賢人章は選民思想がひどすぎるのだが、これも自分の見方が卑近に過ぎるから、なのだろうか。すなわち、「自分が高みに至る」為に必要な人間が誰なのか、という話に「のみ」焦点を絞ればそうなる、であり、そこに他者交流的な要素としての「排除」を見てはいけない、のだが、何やらそちらに引きずられてしまう。
構成が悪いよー構成がー。散々愚者章でこちらに愚者として想起しうるあいつこいつを思い起こさせておきながら、次の章で「愚者ならざる人の導きに従え」ってさー。対置したくなっちゃうじゃんねー。もちろん以上は全て愚痴です。全然完成に届かない自分が至っていないからそう感じてしまう。愚者章で本当にはねのけるべき愚者が自分自身に他ならないのであれば、賢人章で見出すべき賢人は自分の中の光のようなもの、なのかも知れません。いや単純に素晴らしい他者よりの導きを仰げ、でもいいのかもしれませんけれど、「伴はいない」なんだし、自分の中から探し出すべきでしょう。もちろん仰ぐに足る他者がいるなら仰げばいい。他山の石とすべき他者がいるなら他山の石で自身を磨くのがいい。どちらにしても、「それをやりたい」という「賢き自分自身」がいないことには進めない。「進みたい」と思えることは、確かに賢い。もっとも、そこで自己中毒に陥ればおしまいである。賢いのは飽くまで「進もうと考えていること」であり、進んでいる自分自身が賢い、などとは間違っても思ってはならないのだ。
と言うわけで、今日も書きましょう。明日も書くのです。そしてときどき、自分の書いているものが正しいかどうかを点検しましょう。とはいえ正しいってなんだろうね? まぁいいや、とりあえず湧いた疑問を湧いたまま放置しておけば、勝手に無意識領域が検証を始めるでしょう。それで忘れ去ったのならばその程度。思い出すなら思い出す程度。あるがまま、あるがまま。