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181・182 たどり着く先
181
透徹した内観を通じ、世界の内側と外側とをもまた見通しうるようになったものに対しては、天界にある者たちすら羨みを抱くであろう。
182
どう人としての高みに達しようか、どう死にふさわしき日を得られようか、どうまことの教えを受け入れられようか。かくも解脱とは難しきものである。
Ye jhānapasutā dhīrā,
凡是 禪那 徹底從事 賢明者
nekkhammūpasame ratā;
出離 全部平息 喜樂
devāpi tesaṁ pihayanti,
天 即使...亦 他們 羨慕
sambuddhānaṁ satīmataṁ.
完全覺 具念
Kiccho manussapaṭilābho,
困難 人 得到
kicchaṁ maccāna jīvitaṁ,
困難 應死者 活命
kicchaṁ saddhammasavanaṁ,
困難 真善法 聽到
kiccho Buddhānaṁ uppādo.
困難 已覺者 出現
Even the gods envy those who are awakened and not forgetful, who are given to meditation, who are wise, and who delight in the repose of retirement (from the world).
Difficult (to obtain) is the conception of men, difficult is the life of mortals, difficult is the hearing of the True Law, difficult is the birth of the Awakened (the attainment of Buddhahood).
智者修禪定,喜出家寂靜,正念正覺者,天人所敬愛。
得生人道難,生得壽終難,得聞正法難,遇佛出世難。
下手に「悟り」レイヤの話をしても仕方ないですね。けど書くことに対する「心根の据え方」という部分では十分響くものだとも感じる。仏にはなれないし、その前の段階の天界の人にもなれない、なれないんですけど、まあいいんですよ。そういうところに俺の希望はない。自分の中をきっちり暴き出して、それを他者に伝わる形で示す。これなので。その道を進むためのしるべたる言葉であるようにはちゃんと響く。なら、それでいい。小乗のお坊さんにはぶん殴られそうですがすみませーん☆
昨日、くっそめんどくせえお話がひと山を越えた。まだ片付いてはいない。ものすげえ疲弊感はあるのだが、なんとかやれたという感じもする。ほんとに何と言うかこう、穴を掘っては埋める、を繰り返す感じである。以前占い師さんに見て頂いたときの言葉を思い出す。「そのひとはあなたにとってひとの形をした試練ですね」と。あー、まぁその時にもうなんとなくそうは思っていたけれど、よりその感覚が強まってはいます。まあ、世の中にはいくらでも厳しい逆風が吹いてるもんだろうし、職場という、ある意味で「守られた」場でぶち当たれたのは僥倖とも言うべきなんでしょう。これがほんとに弁護士挟むような案件でぶち当たったとしたらもう最悪である。人生ぶっ壊れる。「ここで出会い、なんとかこの手のやつをさばくための手綱の取り方を学ぶ」。うん、確かに重要なことだ。やりたくないと考えていてもいつかぶち当たったりするのが人生。金もらいながら予行演習できてると思い、たい。まぁまだまだ言い聞かせ段階でしかなく、納得には落ち着かないけど。
「神さまは人間に乗り越えられない試練は与えない」という。まぁ基本的に嫌いな言葉ではある。天災で、戦災で、虐待で理不尽に死んでしまった人たちに向けて堂々と言いきってみろ、と言うやつである。けど、超えないことには自分の「楽しさ」を楽しめないのだ。そういう観点で「乗り越える」「割り切る」「逃げる」は柔軟に選択できるといい。楽しむ、が第一だ。そのための障害がなくなりさえすればいいのだ。戦うという選択肢はきわめて無駄なものだ。やらねばならないときにはやらねばならないのだろうけれど、それは最後の選択肢だ。
楽しさを追い求め、自分の中身を、より的確に、より開けっぴろげにぶちまけていこうな。