Dhammapada 82・83
82
深き泉が澄み渡るかのような状態。これが道理を得た智者の境地である。
83
善き人はまず欲を捨て、欲について語ることもない。賢き人は苦楽に触れても、どちらが善いかなど語ることはない。
Yathāpi rahado gambhīro,
像 亦 池 深
vippasanno anāvilo;
擴大明淨 無混濁
evaṁ dhammāni sutvāna,
如是 法 聽到
vippasīdanti paṇḍitā.
擴大明淨 賢智者
Sabbattha ve sappurisā cajanti,
在一切處 確實 真善人 放出
na kāmakāmā lapayanti santo.
不 欲諸欲 使...閒聊 真善
Sukhena phuṭṭhā atha vā dukhena
樂 觸 然後 或 苦
na uccāvacaṁ paṇḍitā dassayanti.
不 高及低 賢智者 顯示
Wise people, after they have listened to the laws, become serene, like a deep, smooth, and still lake.
Good people walk on whatever befall, the good do not prattle, longing for pleasure; whether touched by happiness or sorrow wise people never appear elated or depressed.
亦如一深池,清明而澄淨,
智者聞法已,如是心清淨。
善人離諸欲,不論諸欲事。
苦樂所不動,智者無喜憂。
菜根譚~ダンマパダの動きは、自身の心の混濁を知るための日々、と言う感じがしている。混濁させず、澄み渡らせる。そのために、まず混濁していることを知る。そして病を得たときに、この混濁が本当に甚だしい。病を得てなお澄み渡らせることができればいいのだけれど、これはまったく異次元の話である。
それにしてもえげつないのが後段である。これを言ってしまうのか。いやどこかでこの話も出てくるとは思ったのだけれども。佳き人は欲を抱えない。欲を抱えないならそもそもそれについて語ることもない。つまり「欲など悪いものである」などとほざくのが周回遅れにも甚だしい、とする。そして苦楽はともに「自らに与えられた環境」でしかない。環境というのはただ降りかかるものであり、苦に苦しみ、楽に楽しむなどというのは、自分ならざることに振り回されるに他ならない。あるをあるがままに受け止める、それだけでよい、と言うわけだ。できるかそんなん。
こう言う境地がある、というのは、それはそうなのだろうけれど、そこを目指すことにどれだけの意義を覚えられるのか。いや、もしかしたらある日にすとんと腑に落ちるのかもしれない。落ちないのかもしれない。どちらでもいい。ひとまず心は澄み渡らせておきたいところ。そして「欲など抱かない」とか知ったことかで、欲に対して素直になる。じゃーなにかお前らが「高みに至ろうと願う」のは欲じゃねえのかこらって気分である。より高くありたいという欲を持って何が悪い。
まあ、より高くありたいひとがなんだこの放逸の日々はって感じではある。そんなもんです。