以前、ラジオを聴いていたら「同じマンションに住む若夫婦が駐車場の雪かきをしてくれないことに憤りを感じている」という旨のメールが読まれていた。 それを聴き、このメールを送った人は若夫婦に対して雪かきをしてくれることを期待してしまっているのだなと思った。 私の意見としては、人に期待するだけ無駄だから即座に期待することをやめ、自分でするしかないのだと割り切るべきだ。 マンション内のルールとして、住民が交代で雪かきをすると決まっているのであれば話は別だが、ルールとして決まってい
「誰もが自分の人生においては主人公だ」なんて言葉は世の中にありふれている。 しかし、俺は自分が主人公である必要は全くないと思っている。むしろ、個人的には自分の人生という物語の中でさえ脇役でいたい。 自分の性格を考えるとスポットライトを浴びるには、あまりに不向きだとすぐに分かる。正直、裏方に徹することが出来れば1番なのだが、自分の人生だからそうもいかない。表舞台には立たざるを得ないのだ。だから脇役を選ぶのである。 適材適所という言葉がある。主人公としてスポットライトを浴び
友人が日付が変わって今日から2泊3日で北海道旅行に行くらしい。北海道は行ってみたいとずっと思っているため、単純に羨ましい。 旅行と言えば必ず発生するのはお土産問題だ。誰々にはこれ、誰々にはこれと1人1人に合わせて買うか、同じ商品を必要な数だけ買うか等、買う側の性格が出る。また、何を買うかでセンスを問われる場でもある。 故に、「お土産は○○が良い」と指定してくれた方が買う側としては助かるのだ。逆に最も困るのが「センスに任せる」という一言だ。食べ物なのか、小物なのか。有名な物
『鬼滅の刃』ブームは凄まじい。鬼滅ブームは新たな言葉を作るほどだ。その言葉とは「キメハラ」である。「『鬼滅の刃』ハラスメント」の略で「キメハラ」と言うらしい。どのような行為が「キメハラ」に該当するのかというと 「え、鬼滅見てないの?見なよ!面白いから!」と見ることを押し付ける。 「鬼滅嫌い、興味ない」と言えない空気。 「鬼滅つまんないとか本気で言ってる?」と価値観を否定するかのような発言。 このようなものが該当するらしい。 俺は、連日『鬼滅の刃』を取り上げるメディアも
自分の声がコンプレックスだった。初めて動画に入ってる声を聞いて普段自分が聞いている声との違いに驚いたという経験は多くの人が共感してくれるだろう。 普段自分の耳に聞こえているのは空気を通した音と骨伝導による音が混ざった音で、他人に聞こえているのは空気を通した音だけだから差が生じるということらしい。 普段自分の耳に聞こえている声は聞き慣れているから好きとも嫌いとも思わない。しかし、他人に聞こえている自分の声は聞き慣れていないからなのか大嫌いだった。 動画等に自分の声が入って
日付が変わってハロウィンが終わったわけだが、渋谷の街では未だに仮装行列が繰り広げられているのだろうか…と思ったが、どうやら今年はコスプレをして渋谷の街を練り歩く人の姿は、あまりなかったようだ。 これもコロナの影響ということか。街で大人数で騒ぐというより、友達の家に数人で集まって騒ぐというようにシフトしたのだろう。ご時世を考えた正しい判断だ。騒ぎたい気持ちを抑えて、冷静な判断を下せるのだから素晴らしい。上からものを言っているように聞こえるが、そんなつもりは一切ないのであしから
「ポケットからきゅんです!」という曲をご存知だろうか。 TikTokで人気に火がついた曲で歌詞に合わせてポケットから指ハートを出す振り付けがキャッチーだ。 この曲は非常にキャッチーでサビの秒数もTikTokサイズで女子高生に人気が出るのも頷ける。 この曲自体に文句はない。 俺が文句を言いたいのは、呑み屋で「ポケットからきゅんです!」と言いながら指ハートを差し出してくる人だ。そんなことをしてくるのは大概、初対面の酔っ払った女の子だ。 女の子がやってる分には何も思わない
人生醸造craftはCOEDObreweryから限定販売されたクラフトビール。 AIで20代から50代までの特徴を分析し、各世代の特徴に合わせた味のビールを職人が作るという斬新なコンセプトで生まれたものである。 現在は購入できないが、味や香りの感想を書いてみる。 ※あくまで個人の感想ですのでご了承ください。 20代 1991〜2020 香り 酸味を感じさせる爽やかだが鼻腔に触れるような香り。 味 口の中にハイビスカスがふわっと香り、とてもあっさりとした味わ
散歩中、通りがかった家の前に虫取り網が置いてあるのを見て、ふと幼い頃を思い出した。 あの頃は活力に満ちていた。毎日外に遊びに行っていたし、学校から帰って来てもまたすぐ出かけるのが当たり前だった。 それが大学生も終わりが近づいた今では学校や前々から決まっていた予定以外では外に出ようなどとは思わない。活力の「か」の字も感じられない生活だ。もしかしたら俺は幼い頃の惰性で動いているだけなのではないか。そんな気さえしてくる程に… もうすでに惰性で動いているとしたら俺はいつま
良い物と高い物はイコールではないが高い物の多くが良い物であることに変わりはない。 だからこそ安くて良い物に出会った時の感動は大きい。
正論は正しく普遍的だが、正解は状況に応じて変動する。正論が正解かどうか見極める力が必要だ。
友人にブログでもなんでもいいからやってみたら?と言われて始めることにしたが、何を書けばいいか分からなかったため、私が中学生の時から変わらない考えをまず書くことにした。 人生の価値についての考えは中学時代から変わっていない。それは「自分が死んだ時に悲しんでくれる人がどれだけいるか」というものだ。自分が生きている間に生まれた意味、生きる意味を見つけられる人なんて限られた極小数にすぎない。「私の生きた意味は死んで初めて分かる」と中学生の拙い頭で考えた結論が10年近く経とうとして