澄んだ声について
毎朝8時に散歩に行くことにしている。
家を出てしずかな路地をいくつかこえると、広めの公園にでる。北海道以外では見たことがなかったが、公園の全体が丘の斜面のようになっている。冬には子どもたちがスキーの練習をするのだ。
秋晴れの青空に映えるイチョウの黄色、ナナカマドの赤色、公園の芝生に落ちる黒い木の影を眺めながら歩く。色や風を肌に感じて歩きながら、僕は生き方のことを考える。
昔からの友人から、新しい仕事の話が来ている。一方で、音楽の方にもようやく進展がありそうだ。生き方を決定づけるような出来事が同時に起きている。まさに岐路と呼べるような状況なのだと思う。右の道を選ぶのか、左の道を選ぶのかによって大きな方向性が決まってしまう。そんな十字路に立っているような気がしている。
人に相談しようにも、そもそも他人に理解してもらえるような選択ではない気がする。コインを投げて決めようか。全部を選ぶことはできないのか。やっぱり自分の感覚を信じるしかないのか。
問いは「何を選ぶのか」ではなく、「どう生きたいか」に収束していく。自分の目的地はどこなのか。目標ではなく、その奥の、意味を知りたい。どんな人生を送りたいのか。そのプロセスをどう進みたいのか。この人生で、僕は何を経験したい?
いろんな答えが自分のなかから返ってくる。その中で、ひときわ澄んだ声を探そうとする。それは、とてもささやかなものだと思う。それは小さく頼りなく、常識や恥や恐れの下に隠れているのかもしれない。言葉ですらないのかもしれない。言葉になる前の状態で、血液や呼吸のなかに現れるのかもしれない。でも、聞いたことのある声だと思う。大丈夫。きっと知っている声だ。
その声に、ゆっくりと耳をかたむけたい。自分の選択が正しかったと振り返る日が必ずくることを、祈るように、深く信じていたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?