調布飛行場連中 その10
イーハトーブを目指して
僕らの付き合いも徐々に深くなり、調布飛行場で会うだけではなく、お互いの家(まだ実家住まいだったが)に行って上がり込んだりするようになった。そのきっかけは、僕が調布飛行場で足を骨折した事かも知れない。
1980年当時、東北で夏頃に「イーハトーブ二日間トライアル」という競技会が開催され、競技ライセンスが無くても参加出来るクラスがあった。僕はこの競技への参加を目指し、調布飛行場で練習をしていた。バイクはホンダバイアルスTL125だ。
調布飛行場の大格納庫兼管制塔のそばに、どこかの産廃業者が不法投棄したらしい、道路から剥がしたアスファルトの塊がころがっていた。これがトライアル競技のステアケース(階段)セクションの練習に、丁度良さそうな感じに積み重なっていた。剥がされたアスファルトの板状の塊が、三段程の階段状になっていて、高さは1メートルから1.3メートルくらいだったろうか。
失敗・転倒・落下
以前にもトライして何回かクリア出来ていたので、緊張感が足りなかったのだと思う。少しばかり進入速度が速過ぎたか、フロントのリフト量が足りなかったのだろう。一段目の段差はクリアしたが、二段目か三段目の段差の角で、フロントタイヤが跳ね上げられてバランスを崩した。あっという間にバイクが竿立ちになり、立て直す間もなくそのまま横倒しになり、アスファルトの塊の山から転落してしまった。
バイクもろとも転落したのならまだ良かったが、まず僕が先に地面に落ち、ほんの僅かの差で僕の上にバイアルスが落下して来た。バイアルスのシートレール辺りが、右足の膝とくるぶしの中間辺りを直撃した。バイアルスの重量の全てが僕の足の一点に集中した。その瞬間、激痛とともに吐気をもよおした(一般的にどうかは知らないが、僕の場合は骨折すると吐気をもよおすようだ)。あまりの激痛と吐気で暫く動けなかった。
非情のポップ
こういう時に限って仲間は誰もやって来ない。当時は携帯電話なんて気の利いたモノも無いし、もともと調布飛行場は閑散としていて人気が無い。すがる思いで周囲を見渡すと、暫くして見覚えのある人影が視界に入って来た。「調布飛行場のポップ」ではないか!4サイクルエンジンの神様「ポップヨシムラ」と呼ばれた吉村秀雄氏のそっくりさんだ。彼はいつも歩いて飛行場にやって来ていて、何をしているのかは知らないが、しょっちゅう見かけていた。言葉を交わした事こそないが、お互い顔くらいは見知っている。あまりに「ポップヨシムラ」に似ているので、僕らは勝手に「調布飛行場のポップ」と呼んでいた。
バイクとともに地面に転がり苦痛に顔を歪めている僕を、彼はきっと助けてくれるはずだ。僕は激痛に苦しみながらも安堵した。しかし現実は遥かに厳しかった。遠目にではあるが、確かに目と目が合ったはずなのに(「ポップ」はいつもサングラスを掛けているから、正確には彼の目は見えなかった・・・)、彼はまるで何も見なかったかのように、何事も起きていないかのように、次第にかつ確実に遠ざかっていく。
僕は遠ざかる「ポップ」の後ろ姿を見つめながら、自分のテクニックの拙さと「ポップ」の非情さを呪った。
その後、一時間くらいじっとしていただろうか、ようやく少しだけ痛みが治まってきた。片足で立ち上がり、転がっているバイアルスを何とか起こした。サイドスタンドを立て、シートに横座りになった。必死の思いで無事な左足を使いキックペダルを踏み込み、どうにかこうにかエンジンをかける事が出来た。
バイアルスが125ccという小排気量だったから、何とか左足でもエンジンを始動出来たのだ。これがバイアルス250や中間以上の排気量だったら、エンジンをかける事はもちろん、倒れたバイクを引き起こす事さえ出来なかっただろう。
僕の実家は、調布飛行場からバイクで二〜三分くらいの近くにあった。だから、何とか右足を使わずに左足だけで、再度転倒する事もなく無事に辿り着いた。
骨折を知らずに通学
その後すぐに病院に行ったのだが、捻挫だという事で湿布薬を処方され、翌日はいつも通り学校に行った。歩くのはもちろん大変だが、階段の昇り降りでは痛みがひどく、さらに大変だった。
この痛みは時間が経っても一向に良くならず、日増しに激しくなっていった。やがて階段どころか、普通に歩く事も厳しくなるくらい痛くなった。あまりにも痛みがひどいので、一週間くらいして病院でレントゲンを撮ったら、骨折していると言われた。膝下に二本ある骨の細い方の腓骨の骨折だった。「誤診のおかげで一週間も骨折した足で歩いていた」と医者に抗議したら、初診時に僕が「捻挫だと思う」と言ったからレントゲンを撮らずに捻挫と診断した、と開き直られた。おまけにその場でいきなりギブス巻かれ(骨折しているから当然の処置だが)右足の膝を少し曲げた状態で、なおかつ足首までも完全に固定されてしまった。
ギプスをするつもりで来院などしていないから、半乾きのギブスの上から普通のスラックスを無理矢理に履かされ、初めての松葉杖をついてヨタヨタ帰る有様だった。突如として重傷患者になってしまった僕は、それから一ヶ月くらい学校を休む事になった。一方、バイアルスは見事に僕の足の上に落下したため、どこも壊れていなかった。壊れたのは僕の足の方だけだった。
ストレスの自宅療養
そういう訳で学校にも調布飛行場にも行けず、家で大人しくするしか無かった。ギプスを巻かれた足はとにかく不便だった。風呂に入るには、ギプスを濡らさないようにゴミ袋に足を入れ、腿の辺りでガムテープを巻いた。もちろん湯船にはつかれない。トイレも大きい方は、便器に座ると足が曲がらないために、ドアがつっかえて閉められない(実家のトイレが狭いのも問題だが)。
また、ギプスの内側に巻いた綿が暫くすると潰れてしまい、足との間に隙間が出来る。そこにギプスの石膏のカケラが入り込み、膝の裏側辺りに溜まり、たまらなく痒くなった。仕方なく隙間に直定規を差し込んで掻いていた。
今みたいにインターネットもケーブルテレビも無い時代だ。一週間もすると、日常生活の不便さに加えてどこにも行けない事で、段々とストレスが溜まって、不眠症気味になってしまった。
でも小宮山君が茶菓子持参(茶菓子持参というところがキッチリしていて彼らしい)で訪ねて来てくれたり、KTさんが松本零士の「ザ・コクピット」のレコードを持って来てくれたりした。当時はCDなんてカゲもカタチも無くて、レコード板が普通の音楽・音声媒体だった。KTさんはあの30cmもあるレコード板をどうやってバイクで持って来てくれたのだろうか。
家族以外とは会話も出来ず、外出もままならず、一人悶々としていたので、彼等の訪問は大変嬉しかった。
(つづく)
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