【第2部18章】ある旅路の終わり (4/16)【悪縁】
【業物】←
黒い天上には、ガスにかすんだ星々のまたたきが見える。その下には、黒い沼状のよどみに浮かぶように、岩石質の足場が細く長く、頼りなく伸びている。
闇を引き裂くように緑色の光の円が生じ、やがて輝く粒となって消える。岩石質の足場のうえに、忽然と『伯爵』の姿が現れる。
パーソナルゲートをくぐって『伯爵』が転移<シフト>した現在地点は、次元世界<パラダイム>ではない。破壊され、死滅された世界の残骸だ。
カイゼル髭の伊達男は、しばし、動くことなく頭上を見つめる。星空のごとき光景は、本来の『空』ではない。虚無空間の有り様だ。
天は裂かれ、地は砕かれ、もはや、この地に生命の息づく余地は失われている。
このような環境に足を踏み入れ、まともな活動をできるのは、ドラゴンでもなければ次元転移者<パラダイムシフター>くらいのものだろう。
カイゼル髭の伊達男の前髪が揺れる。壊れた世界に、風は吹かない。刻一刻と不安定に乱れ、うねり続ける重力の波が、全身をなでる。
「ふむ……夜中の墓地を一人で訪れれば、このような寒々しい気持ちにもなろうかね」
わずかな足場のうえに立っているのは間違いないが、靴の裏の感触は妙にふわふわとしていて、落ち着かない。
まるで、亡者の手が四方八方から自分の身をつかみ、深淵の底へと引きずりこもうとしているかのようだ。
「つらかろう、苦しかろう。そして……無念であろう。だが……いま少しだけ、猶予を与えてもらえないかね? 我輩には、なさねばならぬことがあるのだ」
誰に言うでもなく独りごちる『伯爵』は、老博士から託された重力波観測ゴーグルの機能を起動する。
健全な次元世界<パラダイム>であれば、あり得ない方向へと曲がり、伸び、からみあう引力が無数のラインで表示され、視界と重なる。
カイゼル髭の伊達男は、一歩一歩、足元を確かめるようにゆっくりと歩き始める。ただ直進するだけでも平衡感覚は狂い、転倒し、足場から滑落しかねない。
それでも『伯爵』は進む。目指すべき旅の終着点は、糸のように細い道の果てにある。この次元世界<パラダイム>の残骸の中心……かつて『聖地』だった場所だ。
この半年間、今日という時のために22もの次元世界<パラダイム>を巡り、それぞれの『聖地』を尋ね歩いた。巡礼の旅の総仕上げを、せねばならない。
思えば、旧セフィロト社のエージェントととして身をやつした10年という雌伏の時間も、これから迎える瞬間のためにあった。
カイゼル髭の伊達男が歩を進める、わずかな足場の外側には、視界の果てまで黒い沼のようなエネルギーが満ちて、渦を巻いている。『伯爵』は、苦々しげに一瞥する。
闇色のインク瓶の中身のようにも見えるのは、この次元世界<パラダイム>が崩壊する直接の原因となった重力兵器の残滓だ。10年たったいまでも、十分に破滅的な力を保ち続けている。
「……ふむ?」
カイゼル髭の伊達男は、足を止め、顔をあげる。前方に、何者かの気配を感知する。光源は乏しく、闇に溶けこむその姿を視認することはできない。
自ら望んで、この辺獄のごとき場所へ来る者などいない。進行方向の状況を確認するため、『伯爵』がゴーグルの暗視機能を起動しようとした、その瞬間──
──ガンッ!
「ぬう……ッ!?」
重い銃声が響く。カイゼル髭の伊達男は、反射的に跳び退く。『伯爵』の足があった地点を、弾丸が穿つ。そのまま歩いていたら、間違いなく撃ち抜かれていただろう。
危機は、それだけでは終わらない。カイゼル髭の伊達男は、わずかにうめく。
少しばかり足場から浮いだけで、ふんばりの利かなくなった『伯爵』の四肢に不可視の重力の鎖が無数にからみつく。力場の沼へ無理矢理、引きずりこもうとする。
「……ふんッ!」
空中でバランスを崩し、制動の利かなくなった『伯爵』は、右肩のベクトル偏向クロークを左手でつかむと、地面へ向かって叩きつける。
滑落コースへ乗りかけていた身体の進行方向がずれて、岩石質の足場に落下する。カイゼル髭の伊達男は、そのまま勢いに逆らうことなく転がり、身を起こす。
小石が飛び散り、左巻きの螺旋を描きながら力場の沼へと吸いこまれていくさまを横目で見つつ、『伯爵』は銃弾が飛んできた暗がりの方向に視線を向ける。
「何者かね……?」
身構えつつ、『伯爵』は闇のなかへ誰何する。気配が揺らぎ、近づいてくる。明確な害意を、ぴりぴりと肌に感じる。
「……よう、おじん。久しぶりだ、これがな」
旧セフィロト社の元エージェントには聞き覚えのある、あざけりをふくんだ声が聞こえてくる。『伯爵』は、眉根を寄せる。暗がりから現れた姿が、予想を裏付ける。
「トゥッチ・ミリアノ……」
カイゼル髭の伊達男が、眼前に現れた相手の名をつぶやく。遠目には縞模様にも見えるコーンロウと呼ばれる独特のヘアスタイルの男が、にたりと笑う。右手に握られた大型リボルバーの銃口から、硝煙が漂う。
かつて『伯爵』同様にセフィロト社に所属し、非合法工作員を務めていた男は、いま、黒い防刃コートのうえから羽織ったグラトニア帝国の尖兵であること示す赤い外套をはためかせていた。
→【軽蔑】
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