【第2部31章】落ちてくる、この空の下で (4/24)【再粘】
【捻転】←
「然り。いまのエルヴィーナの言、一言以ておおうならば、真理……余はグラトニアであり、グラトニアとは余である」
腹の底から響くグラー帝の低い声が、周囲の異邦人たちを威圧する。浮き世離れした専制君主と最側近の言葉に我を失っていた3人のうち、最初に言葉を発したのはリーリスだった。
「グリン! そんなの……まっとうな存在であるわけ、ないのだわ!?」
「その言葉も然り、である。女よ……先刻も言ったが、すでに余は人間の枠を超越している。既存の概念に当てはめるならば……神、という存在がもっとも近い」
言い終わると同時に、グラー帝の姿が消える。瞬時に移動して現れたのは、アサイラの正面、大剣の間合いの内側だ。斬撃では、対応できない。
「グオラ」
「……ウラア!」
諸肌をさらす偉丈夫は、腕をコンパクトにたたんだ、それでいて破滅的な威力の右ストレートを放つ。黒髪の青年は、とっさに拳を握りしめ、相手の打撃にぶつけるように殴りかえす。
「グヌウ──ッ!?」
アサイラが、苦悶の声をあげる。拳同士が衝突した瞬間、黒髪の青年側の腕が、一方的に破壊された。風船のように肉は破裂し、骨は粉砕し、それでも衝撃は消滅せず、吹き飛ばされた身体が、ごろごろと『塔』の屋上を転がる。
鮮血の代わりに、骨の内側からコールタール状の黒い粘液があふれ出し、無数の糸のように伸びて、千切れた肉片をつなぎ合わせようとする。ここしばらく聞いていなかった「かえせ」とささやく虚ろな声が、黒髪の青年の脳裏に響く。
気絶するほどの激痛を覚えながら、アサイラは己の肉体の著しい損壊を、どこか他人事のように遠く感じる
『我が伴侶! いま、『再生』の魔法<マギア>を──ッ!?』
「グオラ」
アサイラのもとへ急行しようとした龍態のクラウディアーナは、直上の気配を察知し、首をめぐらせる。空中に直立するグラー帝が、白銀の上位龍<エルダードラゴン>の巨大な背を踏みつける。
回避はおろか、抵抗する余地もなく、龍の巨体が腹部から『塔』の屋上へたたき落とされ、石材に半ば身体がめりこむ。
「グリン……アサイラ! ついでに龍皇女も……しっかりするのだわ!!」
「あグぅ──ついでに、は余計ですわ! 『淫魔』ッ!?」
クラウディアーナが態勢を立て直し、アサイラを救援する時間を稼ぐため、リーリスはグラー帝に対して幻覚による精神攻撃をしかけようとする。
しかし、精神感応能力を発揮するためには互いの視線をあわせる必要がある。諸肌をさらす偉丈夫の動きが速すぎて、まともに目で追うことすらできない。
「……グリンッ!?」
ゴシックロリータドレスの女は、奥歯をかみしめる。眼前、数センチメートル先に、専制君主の姿が現れる。突然すぎて、幻術を行使する隙すらない。
紫がかったウェーブヘアの伸びる頭をつかもうと、グラー帝が右腕を伸ばす。リーリスは、力任せに自分の細い首がへし折られる未来を幻視する。
死を覚悟した刹那、ゴシックロリータドレスの女の身体が、糸のようなもので後方向へ引っ張られる。偉丈夫の右腕が、空を切る。リーリスは、背中側へ首をめぐらせる。
リーリスをレスキューしたのは、アサイラだ。黒髪の青年の砕けた右腕は、付け根から止めどもなくあふれ出す黒い粘液に包まれている。
ゴシックロリータドレスの女を引っ張ったのは、伸張した体毛だ。それはアサイラの肢体に巻きつき、インクの染みのように広がり、全身をおおわんとしている。
「グリン……ややっこしいことは、ひとつずつにして欲しいのだわ……ッ!」
リーリスは、顔をしかめる。黒髪の青年の身に起こっている症状には、見覚えがある。いわゆる『暴走』と言うやつだ。
アサイラの内側には、通常の次元転移者<パラダイムシフター>と比べても膨大な──それでもグラー帝よりは優に少ないが──導子力が潜んでいる。
ひとりの人間が持つには大きすぎるエネルギーは、ときに黒髪の青年の意志を無視して勝手に動き出し、主導権を奪おうとすることすらある。ここしばらく、なりを潜めて久しかったため、克服したものだと思いこんでいた。
「アサイラのピンチに、また顔を出してきたってわけ? 正直、ありがた迷惑なんだけど……グリンッ!?」
アサイラの体毛が切断され、リーリスの身体は空中に放り出される。グラー帝が、黒髪の青年の眼前に姿を現す。立つことすら、やっとの状態では、まともに迎え撃つこともできない。
「グオラ」
「グヌウッ!?」
諸肌をさらす偉丈夫は、アサイラの腹部にボディブローを叩きこむ。黒髪の青年は、胃の中身をまき散らしながら、放物線を描くように吹き飛ばされる。
ほんの数秒の内に、アサイラの身は『塔』の屋上の縁を越えて、宙を舞う。再度、グラー帝は瞬間的な移動によって、空中の黒髪の青年へ追随する。
「グオラ」
「グヌアッ!!」
グラトニアの専制君主は、冷たい視線でアサイラを見下ろしつつ、とどめと言わんばかりに、拳を振り落とす。黒髪の青年の身体は、自然落下の数倍の速度で、地面へ向かって落下していく。
「アサイラ──ッ!?」
「我が伴侶──ッ!!」
リーリスとクラウディアーナの悲鳴が、あっという間に遠くなっていく。ただ落ちただけでも、命の助かりようのない高々度でこの落下速度。さらには、グラー帝から受けた打撃のダメージが重く、身体は言うことを聞かない。
「グッ、ヌゥ……」
黒髪の青年は、せきこむようにうめく。そのまま、意識が遠のいていく。
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アサイラは、グラトニアとも『塔』とも似ても似つかない空間で、目を覚ます。落下は、していない。足の裏には、硬い感触がある。だが、周囲に広がる光景は、まっとうなものではない。
夕暮れから夜へ変わる直前の色に染まった空は、割れたガラスのように砕け、360°全方位、血と肉が融けたような赤黒い液体に満たされている。
足場となるのは黒髪の青年が立っている、かろうじて不気味な海から頭を出すコンクリートの建物の屋上くらいのものだ。
もっともアサイラは、過去に何度か、この空間に足を踏み入れたことがある。いずれも命の危機に直面し、死が目前に迫ったときだった。
「これが、俺の内的世界<インナーパラダイム>だって言うんだから……ずいぶんと、気の滅入る話か……」
内的世界<インナーパラダイム>。知的生物の精神構造に通じているリーリスが、確かにそう言っていた。深層心理のさらに奥に存在する、通常であれば知覚されることすらない、個々人の精神の聖域ともいえる空間。
「……まえに、ここへ来たときも死にかけたときだったか。つまり、今回も……」
現実世界のアサイラは、いままさに臨死の状況にある。内的世界<インナーパラダイム>で、状況打開の糸口を見つけださなければ命は助からない、ということだろう。
黒髪の青年は、とても生きているものがいるものが存在するとは思えない、腐った海の水平線へ向けて目を細めた。
→【内念】
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