【第2部9章】月より落ちる涙一粒 (11/16)【決壊】
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「さすが、ディアナさま! ついでと言ってはなんだけど……メロのこと、あの穴の近くに降ろしてもらってもいいのね?」
『おまかせなさい。非常時ゆえ、一切の遠慮は不要ですわ』
大質量の粘体で満たされ、地獄の坩堝と化した窪地のすぐわきを、白銀の上位龍<エルダードラゴン>がかすめるように滑空する。
「ありがとうなのね、ディアナさま……ッ!!」
魔法少女は龍皇女の背から飛び降りると、生理的な嫌悪感を抑えこみながら、激しくのたうつ粘体の水面へ向かって駆け、近づいていく。
大地を焼く『落涙』の飛沫を浴びないぎりぎりの距離で足を止めたメロは、左右の手にそれぞれ握ったふたつのフラフープを、赤く不吉な空を破らんとかかげる。
「ええーい……ッ!!」
魔法少女は大きく振りかぶり、両手のリングを粘体のたうつ窪地のなかへと投げる。二輪のフラフープは空中でメロの意志に応じて、その直径を数倍に拡大する。
「あんな気持ち悪いもの、本当はさわるのだってイヤなんだけど……!」
メロは、いまにも泣き出しそうな表情を浮かべている。巨大な車輪と化したふたつのリングは、大質量の粘体のなかへと落下し、沈んでいく。
「廻れ! 希望転輪<ループ・ザ・フープ>ッ!!」
魔法少女は両手をまっすぐまえに伸ばしながら、叫ぶ。暴れるスライムの坩堝のなかで、メロの投げこんだリングが高速で回転しはじめる。
メロが操る一対の輪は、転移律<シフターズ・エフェクト>とも呼ばれる特異能力を備えている。ふたつのリングの断面は、互いを出入り口とする亜空間トンネルを作り出すことができる。
『落涙』のなかへ投げこまれたふたつの輪は、それぞれ対面するように崖に張りつき、片方は吸いこむように、もう片方は吐き出すように高速回転する。
巨怪な粘体をたたえた窪地の水面の波立ちが、ランダムなものから次第に秩序だった流れへと変化していく。
メロは空間を越えて対となるリングをつなぎ、一方通行の勢いを作りだし、逃げだそうとする巨大スライムを抜け出せないループのなかに閉じこめた。
「上手くいったみたいなのね……でも、リングはあとで念入りに洗わないと……」
『メロ! 前ですわッ!!』
「あわわ! おっとっと!?」
窪地の水面から、人間の子供大の飛沫が跳ねて、メロに向かって襲いかかる。魔法少女はとっさに飛び退くが、小さな『落涙』たちは地面を這いまわって、邪魔者を追いかける。
粘体の飛沫は、ランダムに予測不可能な動きでうごめき、メロを追いかける。魔法少女はわたわたと逃げまわる。
「あわわーっ! メロ、気持ち悪いもの、大嫌いなのねー!!」
『落涙』の飛沫は分裂と融合をくりかえしながら、灌木や下草を赤く枯らしつつ、メロを包囲しようとする。粘体の触肢は、正気を蝕むような動きで伸びて、蠕動する。
「いやーっ! 誰か、助けてなのねー!!」
半泣きになりながら、メロは駆けまわる。人の頭大に分裂した『落涙』が、魔法少女の進行方向に先回りする。急に止まれず、メロは転びそうになる。
「あわわ──ぁ?」
生理的嫌悪感のあまり、魔法少女はかたく目を閉じる。奇怪な粘体に顔面からつっこみそうになり……急に身体が上方向に浮きあがる。
『大儀ですわ、メロ』
「ありがとう、ディアナさま! 助かったのね……」
白銀に輝く上位龍<エルダードラゴン>の爪の先端が、魔法少女の衣装のリボンに引っかかり、メロの身体は空中へと引っ張りあげられる。少女は安堵のため息をこぼす。
『落涙』の飛沫たちは悔しげに触腕を上方へと伸ばすが、メロとクラウディアーナの高度にはとうてい届かない。
八つ当たりをするように周辺を這いずりまわり、一帯の植生を荒らした奇怪な粘体はやがてぶるぶると震えると、毒々しい蒸気を噴き出しながら消滅する。
『なるほど。これが、カルタの言っていた活動限界……個体の体積が小さくなれば、そのぶん動きまわれる時間も短くなるようですわ』
「それで、ディアナさま……これからメロはどうすればいいのね?」
魔法少女は、龍皇女の前腕とわき腹をよじ登り、その背にたどりつく。空に視線を向ければ、三日月の『瞳』が無感情にこちらを凝視している。
『しばし様子見ですわ。メロのしかけは、いまのところ上手く機能しています……余裕があれば、念のため、周辺のエルフやオークに避難を促したいところですが……』
「……待って、ディアナさま! なにか、様子がヘンなのね!?」
メロは『落涙』を閉じこめた窪地を指さす。白銀の上位龍<エルダードラゴン>は、宝玉のような目を見開く。
少しずつだが確実に、粘体の水位が上昇している。もともと巨怪なスライムを閉じこめるには、ぎりぎりの広さしかない空間だ。
「だめ……っ!」
なかば悲鳴のような叫び声をあげながら、メロは両手をかざす。流れを作り出すリングの回転力を増して、どうにか『落涙』の氾濫を押しとどめようとする。
魔法少女の必死の努力をあざ笑うように、秩序立っていた水面の渦がふたたび乱れはじめる。すでに粘体は窪地を完全に満たし、どうにか水面張力で保っている状態だ。
「あわわ、このままじゃ……あふれるのね! そんな、メロもディアナさまも、攻撃なんかしていないのに……どうして!?」
『苦痛による増殖……なるほど。地形との摩擦で、体積を増して……ッ!』
「そんな……ただ動きまわるだけでも、だんだんと大きくなっていくってことなのね!? あわわ……もう、限界ッ!!」
ひときわ大きな飛沫をまき散らしつつ、粘体のかたまりが窪地からあふれ出す。メロの『希望転輪<ループ・ザ・フープ>』の回転力でも、その体積を吸引することはかなわない。
巨怪なるスライムはまるごと、天然の牢獄から解放されて、ふたたび勢いよく流れ出す。この世のものならざる濁流に樹々が呑まれ、見る間に朽ち果てていった。
→【増蝕】
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