【第2部10章】戦乙女は、深淵を覗く (8/13)【深淵】
【禁呪】←
──ガコオ……ォォンッ!
詠唱が終わると同時に、姉姫エルヴィーナの背負う咎人の門、追放者の石扉が重い音とともに勢いよく開かれる。
禁断の門の向こうには、正気を蝕むような極彩色の輝きを放つ空間が広がっている。アンナリーヤは臓腑が凍りつくような恐怖を味わいつつも、脚を微動だにすることができない。
「……ふえっ!?」
おぞましい感触に、アンナリーヤは悲鳴をあげる。黒い翼の姉の背負う異界の門の彼方から、巨大な蛭のような、うごめく軟泥のような不定形の存在が無数に這い出してくる。
無形の怪物たちは儀式の間の床を、壁を這いまわり、アンナリーヤの素肌を脚を撫で、おぞましい感触と粘液の跡を残していく。
「……我が娘、エルヴィーナ!」
母たる女王はようやく異常を認識し、鋭い声音で姉姫の名を叫ぶ。当のエルヴィーナは、泰然とした様子のまま口元に淫靡な微笑を浮かべている。
「これが、命じていたとおりの儀式なのか!? ヴァルキュリアの王女たるもの、母たる我の言葉には従わなければッ!!」
「まあ、母上ったら。そんなに声を荒げないで……いままで、わたシがあなタの意に背いたことなどございました? それに、お楽しみはこれからなので」
憤怒を露わにするオリヴィネーア女王に対して、エルヴィーナは余裕の表情を崩さない。その股の下を通って、とどまることなくうごめく異形が這い出てくる。
「禁呪に触れて乱心したのか、母たる我の目を欺いて何事かをたくらんでいたのか……どのみち、この儀式は中断せねば!」
蛭と粘液の濁流に足首まで呑まれながら、母たる女王は短く呪文を詠唱し、指先で空中に魔法文字<マギグラム>を書き出そうとする。
「『風爪』の魔法<マギア>なので? これより始まるのは、狂艶の宴。母上も無粋なことは、およしになられて……」
詠唱の頭だけで呪文の詳細を読みとったエルヴィーナは、母たる女王に向かって手を伸ばす。姉姫の意に応じるように、咎人の扉の向こうから一本の触手が伸びる。
「オろらぅ……!?」
「オリヴィネーアお母さま──ッ!!」
アンナリーヤは、悲鳴をあげる。不気味な粘液をしたたらせる触手が母たる女王の手首に巻きつき、魔法<マギア>の発動を中断させる。
「わたシが幼かったころ母上は、おいたはだめ、と言っていたので」
エルヴィーナの人差し指が、くるりと左回りに回転して小さな円を描く。追放者の門からさらに五本の触手が飛び出し、上下左右から母たる女王の腕を、脚を、翼を縛りあげ、完全に動きを封じる。
「うわあぁぁーッ!!」
眼前で繰り広げられる人知を越えた惨劇に、アンナリーヤは悲鳴をあげる。それでかえって、すくんでいた両足が動くようになる。
裸体をさらしたまま身をひるがえし、水たまりのごとく床に満ちた異形の存在を踏みつぶしながら、部屋の入り口に向かって走る。
閉ざされた鉄製の扉は、すでに妖蛭と軟泥によって半分以上おおわれている。そうでなくとも『施錠』の魔法<マギア>をかけられた門を開くためには、術者以外ならば魔術師であっても苦労する。
「誰か、誰か来て! お母さまが! エル姉さまが……ッ!!」
鉄製のぶ厚い扉を両手の拳でたたきながら、半狂乱のアンナリーヤはあらんかぎりの声を張りあげる。
そうこうしているあいだにも、開け放たれた禁断の扉から異形の群が止めどなく流れこみ、扉はおろか、床が、壁が、天井までもが、生物の体内のようなうごめく肉に包まれる。
「無駄なことはおやめなさい、アンナ。この空間はもはや異なる次元世界<パラダイム>も同然。いくら助けを呼んでも、届きはしないので」
アンナリーヤが姉姫のほうを振り向こうとした瞬間、左右の肉壁から触手が飛びきたる。妹姫の四肢と翼は拘束され、母たる女王同様、裸体のまま空中にはりつけとなる。
「あ、おあ、ぁ……」
恐怖と絶望で、アンナリーヤは嗚咽をこぼす。自分は上向きで、オリヴィネーア女王は下向きで、まるで鏡あわせのように裸体を固定されている。
かろうじて動く首を傾けて、アンナリーヤは姉姫のほうを見る。惨劇をもたらしたエルヴィーナは、自分の白い肌を這う触手の頭を愛おしげに撫でている。
「ああ、そうそう。もう、これはいらないわね。家族ごっこは終わったので」
姉姫は、自分の背中に生える二枚の黒い翼を侮蔑の表情で見やる。エルヴィーナは背中に手を伸ばし、黒い翼のつけ根をつかむと、無造作に力をこめる。
「ふえ──!?」
アンナリーヤは、唖然とする。ほかの姉妹と色が異なるとはいえ、ヴァルキュリアの象徴である双翼は、ずるり、とまるで雑草のように姉姫の背から引き抜かれる。
エルヴィーナは自分の黒翼を、なんの未練も見せずに融肉のなかへと投げ捨てる。そのさまを見つめるアンナリーヤの両目から、涙がこぼれ落ちた。
「……グヌッ」
「ダメよ、アサイラ。これは王女どのの記憶を再生しているだけだわ。実際に、なにかが起こっているわけじゃない」
反射的に助けに入ろうとした黒髪の青年を、リーリスは制する。あまりに淫靡で狂気的な光景を目の当たりにして、アサイラの拳に力がこもる。
「俺は門外漢だが……こんなトラウマを掘り起こされて、現実の精神に悪影響が出たりはしないものなのか、リーリス?」
「もちろん危険はともなうけれど、アフターケアもしっかりするつもり。なにより、これは決定的瞬間だわ。得られる情報は、十全に持ち帰らないと……」
どろどろに融けあった肉壁の部屋の片隅から、アサイラとリーリスは姫騎士の記憶の奥底に隠された惨劇を観察し続ける。
「グヌ──?」
黒髪の青年は、眉根を寄せる。淫獄を顕現させた張本人、エルヴィーナと呼ばれる三つ編みの女が、ちらり、とこちらを見たような気がした。
→【動揺】
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