【第1章】青年は、淫魔と出会う (15/31)【二波】
【決行】←
「行けッ!」
ドラゴンの頭上で、『淫魔』は叫ぶ。
精神を掌握されたワイバーンの群れは、『淫魔』の意志に応え、漆黒の獣を駆り立てるべく、地上に向かって急降下をかける。
「ギャアッ! ギャアッ! グギャアアァー!!」
耳をつんざく叫び声を吠え立てながら、ワイバーンは葦原をにらみつける。だが、その勢いは、すぐにそがれる。
「……いない!?」
龍の背の上から身を乗り出して、『淫魔』は湿地帯を見下ろす。オークの群れが倒れ伏す地点に、先ほどまでいた無貌の怪物の姿は消えている。
「まさか──葦のなかに身を隠した? オークたちの戦い方から、学習して……?」
握りしめる『淫魔』の手に、力がこもる。この次元世界<パラダイム>の冷涼な風が、ドレスの破れ目から入りこみ、肌を冷やす。
ワイバーンは視力に優れるが、他の感覚に関しては凡庸だ。ターゲットを見失い、どうにか獲物を探し出そうと、葦原の直上を低空飛行する。
「グギャア──ッ!?」
翼竜の一匹が、悲鳴のごとき金切り声をあげる。片翼が、なにかに引っかかったかのように動きを阻害されている。
巨大な翼に食いこんでいたのは、葦の茂みのなかから伸ばされた数本の剛毛だった。
どうにかバランスをとろうともがく必死の努力もむなしく、揚力を維持できなくなったワイバーンは空中で回転し、轟音を立てつつ、背中から泥沼へと落下する。
葦と泥しぶきの影から、漆黒の獣が飛び出す。無貌の怪物は、翼竜の胸元に着地すると、首の付け根に向けて拳を突き降ろす。
「ギャボォーッ!!」
のどを叩き潰されたワイバーンは、血を吐きながら、絶命する。
「ギャ! ギャギャ!?」
「グギャアーッ!!」
群れの一員をやられたことに気がついた翼竜たちは、仲間の死体が横たわる地点へと殺到する。先頭の一匹が、顎を開き、獲物を喰い砕かんと迫り来る。
漆黒の獣は、仰向けの飛竜の屍から飛び降りると、その尾の方向へと走る。身を屈め、両腕で巨木の幹のような尻尾を抱えると、渾身の力をこめる。
「悪夢だわ……どっちかといえば、私、夢を見せる側だと思っていたんだけど」
上空を旋回するドラゴンの背から戦局を見つめていた『淫魔』が、自分の額に手を当てつつ、つぶやく。
「ヌグウゥラアアァァァ!!」
無貌の怪物の咆哮が、葦原を揺らす。漆黒の獣の背が仰け反ると、泥の大地に沈みかけていたワイバーンの死体が、宙に浮かぶ。
「──ウラアッ!!」
怪物は、軸足を泥沼に突き刺して、身を回転させる。尾を抱えられた飛竜の屍が、巨大な棍棒のように振り回される。
「グギイーッ!?」
先陣のワイバーンが、情けない悲鳴をあげる。一瞬前までは同族だった、自身と同等の質量体に、真横から激突される。
片翼とあばら骨をへし折られ、そのまま低空を吹き飛ばされ、生態系の上位に位置するはずの飛竜が湿地帯のすみへと失墜する。
「グギャ!?」
「ギャワッ! ギャワアッ!!」
トカゲ頭のワイバーンでなくとも、経験も予想もできないような攻撃を受けて、旋回する群れは恐慌状態に陥る。
漆黒の獣は、その混乱をついて、高く跳躍する。手短な飛竜の背に飛び乗ると、その身を頭へ向かって駆け抜ける。
「ヌグラアッ!!」
「グギャ──……ッ」
両手を握りあわせ、ハンマーのように振り下ろされた怪物の拳は、頑強なはずのワイバーンの頭蓋を易々と粉砕し、その命を奪う。
次々と仲間をやられ、狼狽から回復できない残りの飛竜へと、漆黒の獣は跳躍する。
「……まだまだァ!!」
『淫魔』は、叫ぶ。他ならぬ、自分自身の士気を奮い立たせる。
精神を掌握し、五感を共有した本命──『淫魔』が背に乗るレッサードラゴンを、ターゲットに対してけしかける。
小山ほどの巨躯を持つドラゴンは、湿地帯に向けて降下し、『淫魔』自身は龍の背から飛び退き離脱する。
「グルオオォォォ──ッ!!」
ドラゴンの巨体が、エルフの村の方角を背に、葦原を押しつぶす。
最後のワイバーンを叩き落とした無貌の怪物は、沼地に着地すると同時に、進路をふさぐレッサードラゴンと対峙する。
ドラゴンから見れば、豆粒ほどの獲物だ。普通であれば、勝ち目はない。だからこそ、龍を屠る人間の英雄譚も枚挙にいとまがないのだが──
「──あんな規格外のモンスターを、そういうヒーローだと思いたくないのだわ」
ゆっくりと黒翼を羽ばたかせつつ、『淫魔』は空中で独りごちた。
→【本命】
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