【第1章】青年は、淫魔と出会う (1/31)【淫魔】
「んぢゅるっ。じゅぱ……っ。ぶぢゅ、じゅむる。れろ、れろぉ……」
表通りを走り抜ける車両の喧噪と、過剰なほどにきらびやかな電飾の輝きから隠れた摩天楼と摩天楼の隙間。薄暗い灰色の路地裏に、卑猥な水音が響く。
紫色のゴシックロリータドレスに身を包んだ女が、ハイヒールでつま先立ちになり、背伸びをして眼前の男に接吻している。
男の胸元に付けられた銀色のネームプレートが、無機質に光を反射する。
「うぐ……っ。んむ……っ。ぐぐぐ……──」
口づけを施されている、スーツ姿にサングラスを身につけた男は、びくびくと背筋をけいれんさせる。
右手には、レーザーサイト付きのオートマチックピストルが握りしめられているが、銃口はだらりと地面を向いている。
男の股間は、はしたなくズボンのチャック越しに大きなテントを張っている。
「ぢゅむむむぅ……んちゅう、れろ……っ。んっ、んん……っ」
女は上目づかいにサングラス越しの瞳を捉えながら、いっそう強く柔唇を押しつけていく。女の双眸が、妖しい輝きを反射する。
蛇のように身を伸ばす女の舌肉は、男の咥内を激しく蹂躙しながら、さらに奥へと入りこんでいく。唇の結合部から、だらだらと唾液が垂れ落ちる。
舌蛇の先端は、のど彦をくすぐりながら、咽喉の粘膜をなであげる。
のどの奥まで陵辱されながら、吐き気を覚えることもなく、糖蜜を煮詰めたような異様なほどの悦楽だけが身を貫く。
(ぐぐ……ッ。なんだって、オレが……よりによって、この女に……ッ!)
断続的な肉悦に伴うめまいで、平衡感覚をかき乱されながら、男はサングラス越しにフリルだらけの装身具を身にまとった女をにらみ返す。
拡張現実の機能を搭載したサングラスの内側に、各種データが表示される。
女の風貌がデータベースと照合され、わずかな待機時間ののち、ブラックリストから引き出されたプロフィールが視界に重ね合わせられる。
「むじゅう……んっ、んん……んくっ」
医療用チューブのように咽喉に差しこまれた長舌を伝って、蜂蜜の原液ように甘ったるい唾液を、強制的に嚥下される。
粘つく液体が胃袋へと落ちると、男の全身が燃えるように熱くなる。
(データベースを、確認するまでも、ない……やはり、この女……)
──『淫魔』だ。
サングラスの男は、機能不全に陥りかけた知性を総動員して、そう結論づける。
眼前の女──『淫魔』の術中に陥った男の五感は、攪拌されてないまぜとなり、極彩色に染まった視界は多機能サングラス上の情報を読みとることもかなわない。
全身が性感帯と化したような錯覚に支配され、甘味に肉体の自由を奪われる。
「んん……じゅるううぅぅぅ……ッ!!」
「──ッ!?」
『淫魔』が、蛇体のような舌を引き抜くような動きで、のどの粘膜から口蓋までを一気になめあげ、なぶる。
「ん──ッ! んぐぅ──ッ!!」
男は白目をむきながら、ひときわ激しく身震いする。絶頂と同時に失禁し、股間を膨張させたスーツのズボンは、生温かい液体で水浸しとなる。
(なめ……やがって……ッ!!)
サングラスの男は、五感をシャッフルされた状態で、激しい怒りをよすがとして、なお、自我を保つ。
男は、巨大企業体において非合法的活動を担当するエージェントだ。上級社員である『ドクター』から、直接に指令を受けて、この場に来た。
『ドクター』いわく、パラダイムシフターの転移を示す導子波長を検知したという。パラダイムシフターの確保、可能なかぎり生け捕りで──がミッションだった。
専門的なことは男にはわからなかったが、白衣の上級社員の口振りから貴重な機会であることは理解できた。提示された査定も、魅力的だった。
男は、現地の下級社員──アンダーエージェントを動員して、捜索に移った。そして、路地裏で衰弱したターゲットを確認。ちょろい任務のはずだった。
ターゲットは意識を失っているようだったが、万が一を考えて四肢を吹き飛ばしてから、確保に移ろうとした……そのときだった──
──『淫魔』が、邪魔に入ったのは。
「じゅぷっ、むじゅうっ、じゅるるうっ」
『淫魔』は、手をゆるめることなく、陵辱の接吻を男の唇に押し続ける。
エージェントの五感は完全にジャックされ、視界はピンク色の輝きに染まり、聴覚は淫猥な水音が反響し、味覚、触覚、嗅覚は口づけの感触しか知覚しない。
(クソ、クソ……ッ! なめやがって、毒婦が……ッ!!)
サングラスの男は、右手に握った拳銃の感触を確かめようとする。まだ、取り落としてはいないはずだ。
エージェントは、淫楽に侵された五感のなかから触覚に意識を集中する。細い糸をたぐるように、右手の指先の感覚にたどりつこうとする。
やがて、男は、極彩色のジャミング越しに、人差し指に触れるトリガーの硬く冷たい感触を探り当てる。
(勝ったつもりでいられるのも、いまのうちだ……淫売女ッ!!)
過去に幾度かセフィロト社に接触し、敵対的な反応を示している『淫魔』は、ブラックリストにも登録されている以上、始末すれば査定ボーナスがある。
醜態をさらしてはしまったが、『ドクター』のミッション達成に加えて、『淫魔』殺害で得られるボーナスで埋め合わせにする。男は、そう決意する。
(……動けッ!)
男は、自我を暴力性で奮い立たせ、右腕を動かそうとする。震えながら、ゆっくりとだが、感覚のフィードバックを得られる。
(いいぞ、ゆっくりだが……ゆっくりが、いいッ!)
いま『淫魔』は、口づけを通して、男の精神をジャックしている。それには、相応の集中力を必要とするはずだ。周囲への警戒が緩むのは、自然な反応といえる。
──ゴリッ。
こめかみに銃口を押しつける感触が、おぼろげに右手の指に伝わってくる。『淫魔』が目を見開くのが、わかる。
(遅い……ッ! オレの、勝ちだ!!)
エージェントは、逆転劇を確信して、引き金にかけた人差し指に力をこめる。
次の瞬間、男の意識は途絶えた。
『淫魔』が見上げる目の前で、エージェントの頭部はザクロのように弾け飛んでいた。
高層ビルの谷間に反響する乾いた銃声は、表通りの歓楽街でかき鳴らされる広告音楽に呑みこまれ、往来を行き交う人々の耳に響くことはない。
→【青年】
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