【第4章】彼は誰時、明けぬ帳の常夜京 (16/19)【霊符】
【落下】←
熟れすぎて腐り始めた果実のような、ぶよぶよとした肉が、全身に触れる。怖気を覚える粘液が、装束に染みこんでくる。
蛇が獲物を呑み込むように、ミナズキの身体は巨蛭の沼に沈んでいく。見る間に、全身から霊力を吸い取られていく。
それでも、ミナズキはあえて抵抗せず、己の霊感を極限まで研ぎ澄まし、霊気の流れと己の意識を一体化する。
(ああ、やはり……)
その瞬間、ミナズキは世界と一体化していた。己が、妖魔が、構造物が、中心となって、循環する霊気の流れを知覚する。
(霊気の渦は、左回り。たぶん、これは……世界を編むためには『逆』の向き)
ミナズキは、己の内に残されたありったけの霊力を、握りしめた呪符にこめる。
「森羅万象、天地万物、諸事万端──」
唯一の呪符を、地面の奥深くに穿ちこむように、投げつける。実際にできたかは定かではないが、すくなくとも、そうあろうと強く祈念する。
「──封ッ!」
ミナズキの霊力をきっかけにして、『逆』向きの霊気の渦がじょじょに弱まっていく。同時に、巨蛭たちの動きが鈍っていく。
一瞬だけ、霊気の流れが制止する。そして、車輪が回りはじめるように、ゆっくりと『正』の方向へと動きゆく。
ミナズキは、巨蛭の群れとともに、自分が地の底へと呑まれる感覚を味わう。静かに、ミナズキは目を閉じる。
「……父上ッ!」
薄れゆく意識のなかで、ミナズキは背を向けた養父の姿を見る。ミナズキは、必死に養父を追いかけようとする。
「此方は、正しくできましたか? 責を果たすことが……できましたか!?」
離れていく養父の背中に向かって、ミナズキは力のかぎり、手を伸ばす。細い指の先に、なにかが触れたことに気がつく。養父の背中では、ない。
「つかまれ、ミナズキッ!!」
ミナズキの意識が戻る。指に触れたのは、アサイラの手だった。この謎の青年が現れたときと同じように、空中に『門』が浮いている。
アサイラは、戸枠を左腕でつかんで体重を支え、蛭の沼の水面に向かって、けいれんする右手を伸ばしていた。
「アサイラさま……ッ!!」
ミナズキは、赤子ほどに弱まった己の膂力を奮い立たせ、アサイラの右手をつかみ返す。アサイラは、額に汗を浮かべ、ひきつる右腕でミナズキを引きずりあげる。
蛭魔人と巨蛭の群れが、霊気の渦によって地中の底に引きずり込まれていくなか、アサイラとミナズキは、『門』の向こう側へと転がり込んだ。
→【水月】
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