【第5章】剛敵は、深淵にひそむ (3/4)【伯爵】
【坑道】←
「はあ……ッ! はあはあッ!!」
全身ずぶぬれになったアサイラは、地底湖の水中からはいあがり、岸に手をかけながら荒く息をつく。その手には、銀色に輝くネームプレートが握られている。
アサイラは水浸しの顔を、頭上に向ける。機械仕掛けの鳥どもが湖上の地下空間を旋回しているが、攻撃してくる気配はない。
しばしのあいだ、荒い呼吸をくりかえし、欠乏した酸素を全身に行き渡らせると、ようやく陸上にはいあがる。
「おい、聞こえているか……クソ淫魔」
アサイラは、自身の協力者である『淫魔』に対して、念話を試みる。アサイラと『淫魔』の精神はリンクしており、遠隔的な意思の疎通が可能だ。
『あー、聞こえて──いる──のだわ。でも、ちょ──っと、これは──』
普段よりも間をあけて、『淫魔』の返信が脳内に直接響く。その声は、とぎれとぎれで、遠くに聞こえる。
『──そこ、導子流──不安定──移動──して』
「……わかった」
ぶつ切れになり、やがて途絶えた脳内の声に、アサイラは返事をする。立ち上がろうとして、めまいを覚える。
ひざ立ちから、それ以上、身を起こせない。
「グヌギギ……」
アサイラは小声でうめきつつ、しばらく、その場でうずくまる。思ったより、疲労が激しい。気を抜けば、そのまま、気絶するように眠ってしまいそうだ。
あのセフィロトエージェントは、最初に予想したよりもはるかに難敵だった。丸一日程度、つかず離れずの距離から尾行されるだけで、これほど消耗するとは──
「……真正面から攻めてくる相手だけじゃない、ということか」
アサイラは、深く呼吸し、どうにか立ち上がる。大の字に倒れこんで、そのまま、深い眠りに落ちたい誘惑を振り払う。
湖の底に沈めたエージェントが、増援を呼んでいないとは限らない。休息をとるにしても、安全な場所に移動してからだ。
水浸しになった服が、重い。アサイラは、暗黒の坑道の岩壁に手をつきながら、もと来た道を戻っていく。
来たときの倍ほど時間をかけて入り口まで戻ってきたアサイラは、新鮮な空気を吸えるはずの場所が崩落でふさがっているの見る。
「はあ──っ」
無意識に、深いため息がこぼれる。敵エージェントを洞窟内に閉じこめるため、自分でふたをしたのだ。
「……どけにゃあ、ならんか」
アサイラは、のろのろとがれきの山に近づこうとする。そのとき……
──パアァンッ。
爆発とは異なる轟音を立てつつ、落盤の壁が、外から内に向かってはじけ飛ぶ。アサイラは、自分に向かって散弾銃のように飛んでくる小石をとっさにガードする。
アサイラは、目を細める。崩落のふたの向こう側から、陽光が差しこんでくる。もう、夜が明けていたか。
「ふむ。これは、これは……」
坑道の入り口から、何者かの声が聞こえる。逆光にじゃまされてよく見えないが、アサイラよりも小柄な人影が見える。
「貴公が、件の『イレギュラー』かね……ということは、彼はミッションに失敗した、ということか」
声音から判断するに、中年の男性とおぼしき人影は、足場の悪さも意に介さないひょうひょうとした歩調で、洞窟内に入ってくる。
「何者だ……?」
「相手に尋ねるまえに、まず貴公から名乗ってはどうかね? まあ、いい。我輩の名は、デズモント・ミストリート。『伯爵』と呼んでくれたまえ」
『──いま、伯爵──って、言った──ッ!?』
ひどく狼狽するような『淫魔』の声が、アサイラの脳内に響く。瞳孔が外の明るさに慣れて、声の主の姿が見えてくる。
燕尾服に、シルクハット。右手にステッキを持ち、左目には片眼鏡<モノクル>を装着している。口元には、ワックスの利いたカイゼル髭が、朝陽を反射する。
「なんだ……このヒゲ貴族は」
「『伯爵』と呼んでくれ、と言ったろう?」
野外環境に場違いな風貌のその男は、左手の人差し指で、自慢げに己の髭をなぞる。燕尾服の胸元には、ネームプレートが金色の輝きを放つ。
『ヤバいの──だわ。そいつ──スーパー、エージェント──』
頭のなかで、『淫魔』の切迫した声が断続的に響く。アサイラは、重い身体を叱咤して、『伯爵』に対して拳を構える。
『──アサイラ、時間を──稼いで。強引に──扉を、開く──』
「わかった」
アサイラは、短く『淫魔』に対して返事をする。脳の奥からアドレナリンが分泌されて、全身の倦怠感を置き去りにする。
目の前の男──『伯爵』のただならぬ気配が、そうさせた。
「ふむ。さっそく、やる気になってくれたかね。こちらとしても、話が早い」
半円状のステッキの握りを手首にかけると、『伯爵』は黒いカードの束を懐から取り出し、トランプのように切りはじめる。
「ヌウ……ッ」
対峙するアサイラの額を、冷や汗が伝う。眼前の相手は一見すると、いまから大道芸でも披露するのか、といった雰囲気だ。
にも関わらず、息の詰まるようなプレッシャーが洞穴を満たす。いままで撃破してきたエージェント相手には、味わうことのなかった感覚だ。
「……ウラアッ!」
アサイラは、ひざを曲げ、腰を落とし、スプリングのように全身を跳ねさせて、『伯爵』に向かって肉薄する──はずだった。
「ふむ」
黒く塗りつぶされた札を一枚手に取ると、『伯爵』はアサイラに対して掲げる。あと少しで拳が届く、と言う距離で、アサイラの動きが静止する。
「ヌギイ……ッ!?」
不可視のクッションに抱きすくめられたような奇妙な感触に、アサイラは戸惑う。いくら脚に力をこめても前進できず、振りあげた拳も打ちおろせない。
「我輩、武闘派のスーパーエージェント、などと社内では呼ばれているようだが」
手にしたカードを、『伯爵』は傾ける。アサイラのまえに踏み出ようとする推力を相殺していた斥力が、急激に強まる。
「グヌウッ!!」
見えない力場によって、アサイラは、そのまま背後へと吹き飛ばされる。
「こう見えて、我輩、荒事はあまり好まない性格でね」
漆黒の札が、『伯爵』の手の内で裏返される。同時に、アサイラを遠ざける力場が反転する。
斥力は引力へと変じ、今度はカードの方向へと、アサイラの躯体は引き寄せられる。
「だがッ! 任務は、任務である故!!」
『伯爵』は、幾枚ものカードを左手で扇のように広げ、ステッキのグリップを握り直す。杖の支柱から緑色の電光が放たれるのを、アサイラは見る。
「フン……ッ!」
「……ヌギィ!?」
残光が闇を切り裂きつつ、電撃をまとった石突きが、フェンシングのようにアサイラのみぞおちに打ちこまれる。
強烈な電気ショックとともに、ふたたびアサイラは背後へと吹き飛ばされる。空中で一回転して、着地し、立ち上がろうとするも、身体が言うことを聞かない。
「ふむ。相応のダメージがあった、と見てかまわないかね?」
ばちばちとスパークする杖を、サーベルのように素振りしながら、ひざ立ちのアサイラに『伯爵』は尋ねる。
「貴公の戦闘データは、限定的にしか得られていないが、ドクに分析してもらったのだよ。シンプルながら強力な身体強化と、驚くべき再生能力……」
ステッキを握り直し、『伯爵』は石突きを剣の切っ先のようにアサイラに向ける。
「……これには、電磁ショックが有効、との暫定解答だったが、いかがかね?」
アサイラは、よろめきながら立ちあがる。震える指に力をこめて、どうにか拳をにぎりしめる。
(ヤバい……濡れているのが、なおマズい……)
胸中でつぶやきつつ、アサイラは徒手空拳のかまえを取りなおす。
『──アサイラッ!』
脳裏に直接、『淫魔』の甲高い声が、ぶつ切れに響く。
『左手側──に扉を──開く──ッ!!』
坑道の側面に大きくノイズが走り、敵の死角に古ぼけた木製の『扉』が現出する。アサイラは、『伯爵』を見据えたまま、格闘のかまえを維持し続ける。
「──ウラアッ!」
アサイラの右足のつま先が、洞窟の岩肌をえぐり、『伯爵』の顔面に向けて礫岩を蹴り飛ばす。
不可視の力場が、『伯爵』から迂回するように小石の群の軌跡をねじ曲げる。アサイラは、その隙をついて、『扉』のなかに転がりこもうとする。
「ふむ。少々……稚拙な一手ではないかね?」
アサイラの手が、『扉』に触れる直前で、身体の動きが止まる、背後を仰ぎ見ると、『扉』と対面の岩壁に、黒いカードが一枚、張りついている。
「グヌウ──ッ!」
悔しげなうめき声とともに、アサイラの身は『扉』から引き離される。黒符から生じた力場によって、身体が坑道の側面に張り付けられる。
かつかつ、とステッキの音を立てながら、『伯爵』はアサイラのまえに立つ。
「ヌギギギ……ッ」
アサイラは、『伯爵』に掴みかかろうとするかのように、『扉』に手をかけようとするかのように、引力に逆らって震える右腕を伸ばす。
「我輩の力場から、そうそう簡単に逃れられると思われては心外だ」
「……ウラアッ!!」
限界まで直立させた右腕を、アサイラは後方へと振り戻す。引力と同方向──自らを縫いつける岩壁へと、拳を叩きつける。
アサイラの膂力と漆黒の札の力場が、ひとつのベクトルへと重なりあう。破壊力は合体して、裏拳が坑道の側面を穿つ。
──ドオオォンッ。
鈍い音を立てて、岩壁に亀裂が走る。土煙をあげながら、アサイラの背面が崩落する。廃坑に大穴が顎を開き、アサイラはそのなかへと落下していった。
→【遁走】
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