【第1章】青年は、淫魔と出会う (17/31)【内界】
【本命】←
「さて、どうしたものだわ」
中央に天蓋付きのベッドが置かれた、円形の部屋。家具は砕け、絨毯は裂け、床はえぐれ、壁にはいくつものひび割れが入っている。
ぼろきれのようになったゴシックロリータドレスを身につける『淫魔』は、破壊の痕跡を苦々しく見つめ、寝台へと視線を移す。
「──……」
シーツのうえには、熟睡するかのようにまぶたを閉じた青年が横たわっている。深く呼吸するたびに肩が揺れるほかは、微動だにする気配はない。
青年の四肢には、SMプレイ用の手錠がはめられ、ベッドの支柱に固定されている。
「ゴッコ遊びの拘束具なんて、気休めにすらならないだろうけど」
自分の寝台に横たわる肉体を、『淫魔』はあらためて観察する。泥で薄汚れた以外は、股間もふくめて、よく鍛えられた健康的な、しかし人間の範疇の肉体だ。
先刻までの死闘を思い起こし、『淫魔』は身震いする。漆黒の異貌のみならず、その驚異的な身体能力は、人間離れし、ドラゴンに匹敵するほどだった。
一歩間違えれば、『淫魔』自身が命を落としていただろう。
そもそも、『淫魔』にとって直接的な戦闘は不得手な行為だ。本領は、自身の能力を駆使して、相手を自分の土俵に引きこんで、籠絡することこそにある。
「もう二度と、あんな大立ち回りをやらされるのは……ごめんだわ」
青年の股間に視線を落としたまま、『淫魔』は自分のあごに指を当て、思案する。
短期間ではあるが、ここまでの青年の挙動を観察したかぎり、『化け物が人間の姿をとっている』のではなく、『人間が化け物の姿になった』ように見える。
つまり、本来の状態であれば、まっとうな人間の精神を持ち合わせている……という希望的観測を、『淫魔』は抱く。
「とにも、かくにも……こいつを、交渉可能な状態にしてやる必要があるのだわ」
少なくとも、先ほどまでの戦闘で、この青年自身も大きく消耗したのは間違いないはずだ。ふたたび暴れ出す可能性は、一番、いまが低い。
息を呑みつつ、『淫魔』は覚悟を決める。
「だいじょうぶだわ。やさしくしてあげるから……ね?」
裂け目だらけのスカートをまくりあげながら、『淫魔』は青年の足側からベッドのうえに両ひざを乗せる。
四つんばいの格好になって、『淫魔』は青年の股間に顔を近づける。上目遣いで、おそるおそる青年の様子をうかがう。
初めてこの部屋に連れこんできたときとは異なり、動き出す気配はない。
精神掌握するときと同様に、肉の接触を持つことで、『淫魔』は相手の精神のなか──内的世界<インナーパラダイム>へと潜行できる。
なんらかの狂乱状態にある人間は、内的世界<インナーパラダイム>のなかで発生しているトラブルから精神の主を救出してやれば、正気を取り戻す。
──少なくとも、『淫魔』が知りうる症例では。
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「なによ、これ……広すぎるのだわ」
黄昏の空に、黒翼を広げ、『淫魔』はゆっくりと降下している。
眼下には、方眼紙のように区画整理されたビル街と道路で構成された市街地が広がっている。文明的な街の周囲を山が囲み、暗緑色の樹々が茂っている。
アスファルトで舗装された道路を、無数の自動車が行き交っている様子は、上空からでもよく見える。
「ここが、あいつの内的世界<インナーパラダイム>で間違いないはずだけど」
怪訝な表情を浮かべつつ、『淫魔』は警戒を強める。見える範囲だけでも、街一つ。もし山の向こうにも世界が広がっているなら、その規模は予測がつかない。
『淫魔』が知りうるかぎりの人間の内的世界<インナーパラダイム>としては、明らかに広すぎる。
内的世界<インナーパラダイム>のサイズには個人差があるが、通常は一部屋から大きくても家屋一件ていどのはずだ。この規模は、明らかに異常だった。
「ごくり……っ」
事態の収拾は、いまだ一筋縄で行きそうにない。『淫魔』は生唾を飲みこみながら、覚悟をかためて、市街地に向かって降下していった。
→【市街】
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