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山に虎、月に龍

「そこにおわすは、我が兄弟子、リー・チャウではないか?」

 マリファナの煙が満ちた非合法地下闘技場に、凛としたアジア人の声が響く。殺人リングの上で、いままさに対戦相手の命を刈り取ろうとしていた覆面の大男は、丸太のような腕の動きを止めた。

 声の主──ボロ布のごとき道着に身を包んだ青年、ジンは、誰何した相手の返事を待たずして、歩を進めていく。

 二人の黒人用心棒が、部外者を排除しようと、銃を、ナイフを、ジンに突きつける。刹那、バウンサーの身体が宙に浮き、コンクリートの床に叩きつけられた。

 ジンの研ぎ澄まされた『気』に、酩酊した群集たちも気圧される。旧約聖書の海割りの一説がごとく開いた道を、若きアジア人は通り抜ける。

 腰の引けたスタッフの制止も耳に入れず、ジンはリングの上に登り、大男と対峙し──眉をひそめた。

 殺戮クラブの人気ルチャドールらしき大男は、肉食獣のごときマスクをかぶり、剥き出しの上半身に、南米の地上絵を思わせる刺青を刻んでいる。アステカ神話に伝わる、ジャガーの戦士をモチーフとした意匠であろう。

 ジンの倍はある体躯は、不自然なほどに盛り上がった筋肉の鎧で全身を覆っている。トレーニングは当然として、多量の筋肉増強剤を投与された結果だ。

 そして獣のごとき大男と対峙して、呼吸を感じて、ジンの疑念は確信へと変わる。これは、間違いなく──兄弟子、リー・チャウだ。

 獣人レスラーの背後、防弾ガラスに囲まれたVIPルームの中で、殺戮クラブの元締めらしきメキシカン・ギャングが、側近に対して顎をしゃくる。少し遅れて、司会者を兼任するレフェリーが、マイクを手に観衆をあおる。

 周囲の喧噪が、ジンの耳に届くことはない。殺人ルチャドールと東洋の格闘家は、どちらともなく構えをとる。

 幾多の人間の血を吸ったリングの上に、山の頂に佇む虎と、月を背負った龍の対峙する様を描いた、水墨画のごとき禅空間が顕現した。

【続く】


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