【第5章】剛敵は、深淵にひそむ (4/4)【遁走】
【伯爵】←
「ふむ……キャスリングかね。なかなか、良手だ」
『伯爵』が二本の指を立てると、土煙のなかに呑みこまれたカードが、人差し指と中指の狭間へと独りでに飛び戻ってくる。
あの青年が空けた大穴のなかを、『伯爵』はのぞきこむ。
左目に装着したスマートモノクルの暗視機能を調節しても、見通せない。細かい粒子状の飛沫が煙幕となり、視界をさえぎっている。
「どれ、お手並み拝見」
いっさいの躊躇を見せず、『伯爵』は陥井のなかへと飛び降りる。
宙を舞う飛礫は、『伯爵』の燕尾服に傷をつけるまえに、斥力フィールドによってはじかれる。『伯爵』の落下速度自体も、次第に緩慢となっていく。
「ふむ、これはなかなか。雄大な自然の造形、というものかね」
衣装をはためかせながら、『伯爵』はゆっくりと地底湖の水面に足をつき、波紋を広げる。まるで地上に立つかのように、その身体は水中に沈まない。
左目に装着したスマートモノクルが、周囲の暗度にあわせて自動調整機能を働かせる。地の底の闇に、シルクハットのスーパーエージェントの視界が対応する。
離れた岸で水しぶきを立てて、人影が這いあがる様子が見える。おそらくは、『イレギュラー』か。
『伯爵』が頭上を見やると、小鳥のような物体が複数、狂ったように羽ばたきながら、同じ場所を旋回している。
「ふむ。あれは確か……『機械化鳥隊<バード・カンパニー>』と言ったか。となると、救難信号を送ってきた彼は、ここでやられたか」
視線を落とした『伯爵』は、エージェントを屠ったと思しき『イレギュラー』が逃げこんだ坑道の先を見据える。
「……逃げられると思っているのかね」
複数枚の漆黒の札が、『伯爵』の手から投げつけられる。黒いカードは、飛び石のように、水面に張り付いていく。
カードを基点に展開した斥力フィールドを足場として、『伯爵』は身軽に跳躍をくりかえし、地底湖を渡る。
対岸にたどりついた『伯爵』が湖面に手をかざすと、設置されたカードたちは持ち主のもとへ、飛び戻っていく。
「さて。なにか策があるのか、ただの苦しまぎれか、見極めさせてもらうとするかね」
追跡対象が逃げこんだ狭い横穴へと、『伯爵』は足を踏み入れる。
坑道も、最深部になる。上層ならいざ知らず、ここまで来れば洞窟の分岐もほとんど存在しない一本道だ。尾行を撒くには、不向きな地形と言える。
かつんかつん、とわざとらしくステッキの音を立てながら、ターゲットを狩り立てるように、歴戦のスーパーエージェントは歩を進めていく。
スマートモノクルの視界のすみに、人影を捉える。『伯爵』は、脚を早める。やがて、袋小路と岩壁を背にする『イレギュラー』に対峙する。
「ふむ。このよう場所で、我輩をどのようにもてなしてくれるのかね。それとも、少々、早く到着しすぎたかな。だとしたら、失礼した」
疲労の色を隠しきれないターゲットは、荒く息をつきながら、敵意を宿した視線を『伯爵』へと向ける。シルクハットの男は、小さく笑う。
「ときに、投降する気はないかね。上から降りているのは抹殺指令だが、ドクが貴公に興味を示していてね。助命の口利きが可能だ」
スーパーエージェントの勧告を拒絶するかのように、『イレギュラー』はカイゼル髭の伊達男をにらみつけた。
「……ウラアッ!」
対峙するターゲットは、背中に隠すようにしていた右手を振りあげ、あらかじめ握っていたなにかを『伯爵』に向かって投擲する。
「投石かね? 安直な……」
自身守るべく展開している斥力フィールドの強度を、『伯爵』は高める。飛来物の軌道は、難なくそらされ、坑道の天井に向かってはじかれる。
「……ふむ?」
力場に接触する瞬間、スマートモノクルの視界が、投擲物の正体を捉える。想像していた、岩のたぐいではない。壊れた鳥型の機械だ。
「『機械化鳥隊<バード・カンパニー>』の残骸……ッ!」
セフィロトエージェント、グレッグ・コクソンの救難通信を受け取った『伯爵』は『ドクター』から、彼に貸与された試作兵器の情報を確認している。
遠隔操作可能な複数の鳥型マシン。操作者と視覚情報を共有し、状況に応じて使い分けるための、いくつかのタイプが存在する。
ニードルガンを搭載した射撃型、高振動ブレードを装備した白兵型、そして、高性能炸薬を内蔵した──
「……自爆型かねッ!?」
シルクハットのつばの奥で、『伯爵』の緑色の瞳孔が見開かれる。力場にはじかれた鳥型のマシンが、くるくると回転しながら、天井へと飛んでいく。
──ズガガアァンッ!
「ぐぐぅ……ッ!!」
耳をつんざく炸裂音が、狭苦しい坑道に反響する。『伯爵』は、思わず身をかがめる。崩落が発生し、土砂と岩石が頭上から降り注ぐ。
黒いカードが握られた右手を、『伯爵』は真上にかかげる。己の導子力を注ぎこみ、生き埋めを避けるべく、斥力フィールドを強める。
「我輩と心中する気かね!? 無粋なッ!!」
崩壊の轟音が、『伯爵』の叫び声すら呑みこんでいく。土砂の豪雨は、数分間にわたって降り注ぎ続ける。地震のごとき鳴動が、足元を揺るがす。
やがて、落盤は安定する。立ちこめた土煙も、少しずつ晴れていく。『伯爵』が陣取る場所だけ、ぽっかりと球形状の穴が開いている。
「ふむ。恐るべきは、蛮勇か……はたまた、なんらかの策だとでも……」
スマートモノクルの感度を調節しつつ、燕尾服の伊達男は崩落跡を這いあがる。件の青年の姿はない。彼だけ、生き埋めになったか。
「ひどい粉塵だ。鉱夫が肺の病にかかるというのも、納得できるというものだよ」
漆黒の札をかざし、斥力で砂煙をどけて、視界を確保する。ぱらぱら、と頭上から降りしきる小石以外に、動く影は見あたらない。
歴戦のスーパーエージェントは、念には念を入れる。死んだというのなら、死体を発見せねばならない。なにより、『ドクター』は生け捕りを所望している。
「……ふむ」
黒いカードを一枚、青年が立っていた場所におおいかぶさる堆積物のうえに投げつける。力場が発生し、ぱんっ、と音を立てて崩落物を吹き飛ばす。
「いない……埋まっているわけではない。ゾンビのごとく、地中から這い出てくるくらいの芸当はあり得るかと思ったが」
自慢のカイゼル髭を、『伯爵』は指でなでる。足場が最悪の坑道をさらに奥へと進む。誰とも出会わないまま、袋小路に行き当たる。
突き当たりの岩壁を、『伯爵』は白い手袋ごしに触れる。何の変哲もない、冷たい岩盤だ。
「『扉』……」
ぽつり、と『伯爵』はつぶやく。坑道の入り口付近で交戦したときに、岩壁に古ぼけた木製の『扉』が、忽然と現出するのをみた。
あれは、セフィロト社と敵対するパラダイムシフター『淫魔』が作り出すものだ。
「そういえば……ドクが指摘していたかね。『イレギュラー』が、『淫魔』と協力関係にある可能性を」
シルクハットの伊達男は、白衣の同僚が口にしていたことを反芻する。もっとも、『伯爵』から見ても、なんの不思議もない可能性ではある。
パラダイムシフターは、文字通り、次元世界<パラダイム>の移動者ではある。だが、次元間移動など本来、ほいほいできるほど容易なことではない。
現在、確認している範囲で次元間移動技術を所有しているのは、セフィロト社と『淫魔』のみだ。イレギュラーの神出鬼没ぶりを考えると、妥当なところだろう。
「つまり、逃げられた、というわけか。悪足掻きでも、自爆特攻でもなく……あくまでも、撤退のための一手であった、と」
白手袋の右手が、周囲の闇をなでるようにかざされる。坑道に展開されていた黒符が、『伯爵』の手元へと飛び戻ってくる。
黒いカードの束を、『伯爵』はトランプのようにシャッフルすると、燕尾服の懐へとしまいこむ。沈黙する岩盤に背を向け、坑道の入り口へと歩き始める。
「……なかなかに、見どころのある若者だ、ということかね」
シルクハットの影に隠れた『伯爵』の口角が、にやり、と歪んだ。
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