【第■章】仙郷は此処にあり (3/3)【一歩】
【老師】←
「どうした。呼吸が乱れておるじゃて。体さばきにも、見てとれるぞ?」
「グヌウ……ギィアアァァァ!!」
邂逅からしばらくのあいだ、白ひげの翁と漆黒の獣は、苛烈ながら奇妙な組み手を繰り返す日々を送っていた。
フラミンゴのような片手片足の構えをとった老人は、怪物の怒号混じりの打撃を人差し指一本で悠々とさばいていく。
背中に回した左手のひらのうえには、釣り竿が乗せられ、激しい動きにも関わらず、微塵も揺れる気配はない。
無貌の怪物も飽きることなく、老人を攻め立てる。手刀、掌打、頭突き、ひじ、ひざ蹴り……獣の動作は、日を追うごとに人間の武術体系の所作へと近づいていく。
それでもなお、老人に一撃を加えることはかなわず、指先一本の構えを崩すことすら、ほど遠い。
サルやリスは、漆黒の獣が自分たちに危害を加えることは無さそうだと悟ったのか、以前のように、薪やクルミを持ってくるようになった。
「グヌウラアァァ──ッ!!」
無貌の怪物が、咆哮する。白ひげの翁に向かって、漆黒の獣がさらに踏みこむ。老人の胸元をつかみ、ゼロレンジの攻防に持ちこもうとする。
「妥当。言いかえれば、安直じゃて」
アンバランスな一本足を刈り取ろうとした無貌の怪物のローキックを、老人は小さく跳躍して、かわす。釣り竿が、揺れることはない。
目を見開く漆黒の獣に対して、白ひげの翁は、にいっ、と笑う。老人の指先が、怪物の手首に、そっと置かれる。
「……グヌギイッ!?」
有機的な螺旋を描くように、ぐるん、と漆黒の獣の体躯が空転する。コンマ数秒、中空を浮遊した無貌の怪物は、そのまま、岩肌のうえに落下する。
漆黒の獣は、仰向けで大の字に倒れたまま、荒い呼吸を繰り返す。老人は、数百メートル下の渓流から、魚を釣りあげ、水を汲みあげる。
「グヌウ……」
清水で満たされた桶を無貌の怪物のそばに置くと、漆黒の獣は口元をおおう体毛を引きちぎるや否や、顔を突っこみ、のどを鳴らして水を飲み始める。
その間に、白ひげの翁は釣りあげた川魚を枝に刺し、焚き火であぶる。水分を補給し終えた獣に向かって、老人は焼きあがった魚を差し出す。
もっとも高い場所に登った太陽が見おろすなか、怪物と老人は無言で昼餉をとり、どちらからともなく組み手を再開する。
相も変わらず、片脚鳥の構えの老師に、漆黒の獣は未だ一撃たりとも加えられない。しかし、進歩がないわけでもない。
むしろ、怪物の体裁きは、驚くほどの速度で洗練されつつある。体幹の乱れで転倒する回数は目に見えて減り、いまでは食事の休憩の手前に倒れる程度だった。
「……むう」
午後の組み手のさなか、白ひげの翁が、小声でうめく。
眼前に迫る漆黒の獣が、どっしりと腰を落とす。利き手と思しき右の拳を引くと、よどみなき直線で突き出そうとする。
老人は、感心したかのように目を見開く。左手のひらのうえに立てていた釣り竿を、空に向かって放り投げる。瞬間的に、両手両足の構えへと切り替える。
砲丸のごとき勢いで、無貌の怪物の鉄拳が迫り来る。老人は、風のうねりを肌で感じとる。踏みこみつつ、正拳突きをかすめるように掌底を繰り出す。
「ヌギイ……ッ!?」
老師の一打が、漆黒の獣のあごを叩く。無貌の怪物の動きが、止まる。闇色の体躯が後ろへ向かって倒れていき、気を失ったかのように動かなくなる。
「不佞に……両足、片手を使わせたか。見事じゃて」
漆黒の獣に対してつぶやきながら、白ひげの翁は、頭上から回転しつつ落ちてくる釣り竿をつかみとる。
犬がタイプライターを叩いて文豪の物語を打ち出すように、猫がピアノの鍵盤を踏んで音楽家の名曲を奏でるように、それは、ただの偶然だったのかもしれない。
それでも、いま、無貌の怪物が繰り出した正拳突きの所作は、老師が美しさを見いだす程度には洗練されたものだった。
「しかし……少しばかり、やりすぎたようじゃて」
老人は、ばつが悪そうにひげをなでる。掌底で脳天を揺らされたせいか、漆黒の獣が目を覚ますには、少しばかりの時間がかかりそうだった。
白ひげの翁は、太陽を仰ぐように倒れたままの怪物に背を向け、岩山の縁に腰を降ろし、釣りに専念する。その日は、いつもより多めの川魚を得た。
日が傾き、涼風がふくころ、漆黒の獣は目を覚ます。老人は、夕餉の支度に取りかかっている。白ひげの翁は、二匹の焼き魚を怪物に差し出す。
漆黒の獣は、いつもどおり、口をふさぐ剛毛を不便そうに引きちぎると、無言で川魚を貪る。老人も、自分のぶんに手をつける。
漆黒の獣が、焼き魚を食べ終えたのを見て、老人はクルミをふたつ投げ与えてみる。最初と同じように、怪物は堅果を殻ごと粉々に打ち砕く。
「こちらは、まだ早かったようじゃて」
かすれた声音で笑う老師を意に介する様子も見せず、漆黒の獣は、クルミの実を殻の破片ごと、ばりばりと食べる。
「グヌアァァ……」
いびきのようなうめき声をあげると、無貌の怪物はその場で身を丸めて、横たわる。老人もまた、焚き火の具合を整えると、寝床のなかに潜りこんだ。
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夜明けまえ、天はもっとも暗く、満月が輝くなか、黒い影が、ぬうっ、と起きあがる。熾火に照らし出されたのは、無貌の怪物の姿だった。
夜闇に溶けこむ漆黒の獣は、焚き火の向こう側、枯れ草と毛皮の寝床のなかで微動だにしない老人のほうに視線を向ける。どこか、名残惜しむような眼だった。
それでも、無貌の怪物は老師に背を向けると、摩天楼のごとき岩山から飛び降り、茂みの枝葉を揺らしながら走り去っていく。
「……行ったか」
寝床のなかで目をつむったまま、老人はつぶやく。
「だが、御身……基本の『き』の、そのまた一画目にも至っておらんのじゃて」
白ひげの老師の口元が、わずかに吊りあがる。
「次に会うときは、不佞に両腕を使わせてみせい……」
寝言のように独りごちた老人は、寝床のなかで身をよじると、ふたたび眠りのなかへと落ちていった。
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