【第7章】奈落の底、掃溜の山 (9/23)【猟犬】
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巨大な円筒状の空間だった。
十分な照明が確保されているにも関わらず、上を見ても天井は霞の果てに溶けこんで視認できず、下を見でも穴の底は闇の向こう側に隠されている。
セフィロト本社の『ダストシュート』。巨獣のごとくうごめく経済活動の末に産み出された大量の廃棄物を、ただ投棄するための施設だ。
円筒空間には一本橋がかかり、そのうえには二つの人影がある。
「……以上が、ミッションの詳細になります」
人影の片方、灰色のスーツに身を包んだ一般社員と思しき男が、緊張した面持ちでタブレットデバイスの情報を読み上げ終える。
「了解だ。事前に確認したとおりだな」
もう一つの人影が、くぐもった声でぶっきらぼうに返事をする。
漆黒のコンバートスーツに、フルフェイス型のガスマスクを装着し、バイザー越しにその表情をうかがうことはできない。
顔の見えないセフィロト・エージェントは、ガスマスクの具合をあらためたあと、その他の装備を一つずつ確認しはじめる。
アサルトライフルと予備弾倉、銃身の下部にアタッチメントされたグレネードランチャー、コンバットスーツの左右に格納された軍用ナイフ。
戦場に赴く兵士──それも、最前線か特殊部隊を思わせる重装備だ。
「ふむ。これから出陣かね? ご苦労なことだ」
ダストシュートの円筒壁面に、第三の男の声が反響する。
顔の見えないエージェントが、声のした方向に顔を向ける。ガスマスクの下で、ちっ、と聞こえないように舌打ちする。
底なし穴にかかった一本橋の付け根の扉から入ってきたのは、シルクハットに燕尾服、ステッキを手にした男だった。
胸元には、金色のネームプレート──セフィロト社の上級幹部、スーパーエージェントであることを示す証が輝きを放っている。
「……『伯爵』」
顔の見えないエージェントは、シルクハットの男の二つ名をつぶやく。
かたわらの一般社員は、ただでさえ直立した姿勢をさらに正そうとし、のけぞったような格好となる。
「なんのようだ」
顔の見えないエージェントが、ぶっきらぼうに言う。『伯爵』は、自慢の髭を人差し指でなでる。
「いや、ちょうど我輩のミッションが完了したところでね。せっかくだから、貴公の様子を見に来たのだよ」
『伯爵』は、コンバットスーツのエージェントに向かって歩み寄り、一本橋の下の底なし穴を覗きこむ。
「ふむ。次元転移ゲートは使わないのかね? なにも、こんな危険な移動手段を使うこともあるまい」
顔の見えないエージェントは、ガスマスクのなかでため息をつく。
「それに、アンダーエージェントの同伴もなしかね。なんなら、ノーマルエージェントを動員してもかまうまい」
「こちらの任務を、どうこなそうと勝手だ。なぜ、余計な口出しをする」
「我輩は、お節介なのだよ」
『伯爵』は、シルクハットのふちを指で傾け、目元を隠す。その口角がつり上がる。
「いや、なに。同僚のよしみ、というやつだよ。数えるほどしかいないスーパーエージェントを失うとなれば、我が社にとって手痛い損失だろう」
コンバットスーツのエージェントは、ふたたびガスマスクの内側で舌打ちをする。
「……行きに次元転移ゲートを使わないのは、イレギュラーに逆利用されて、逃げられる可能性を排除するためだ。帰りは、使う」
「ふむ」
「他のエージェントを同伴しないのは、極限環境ではかえって足手まといとなるからだ。この説明で満足か、『伯爵』?」
「ふむ。貴公が強情であることは、よくわかったよ」
『伯爵』は、自慢の髭を親指と人差し指でつまんでみせる。
「ふん」
顔の見えないエージェントは、ガスマスクの下からでもわかるようにわざとらしく、鼻を鳴らした。
「とりあえず、ここから、貴公の出撃を見送らせてもらうよ」
「どこまでもお節介な男だな、『伯爵』」
「スーパーエージェント同士、貴公を心配しているのだがね。なんなら、我輩が手伝ってもかまわないが?」
「余計な気遣いというやつだな」
コンバットスーツのエージェントは、『伯爵』との会話を振り切るように、一本橋の柵を飛び越え、底なしの陥井に向かって跳躍する。
すぐに照明の範囲を脱して闇に包まれ、自由落下のうちに重力感覚も喪失する。
『ダストシュート』は、セフィロト社がゴミ投棄場として利用している次元世界<パラダイム>に直結している。
今回のミッションのターゲット──セフィロト・エージェントをすでに何人も撃退した『イレギュラー』は、いま、その次元世界<パラダイム>に捕らわれているはずだ。
→【瓦礫】
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