アザラシの白昼夢
迷っていた
野菜を買って料理をするのか、それともパンを買ってコーヒーですまそうか
今日もジェシーは家にいない
家に帰ると、まだ午後1時を回った頃なのに部屋が薄暗い。「この曇天、いつ晴れるのかもわからないのにな」
彼がいたら憎たらしく見つめて言ってやる言葉を、窓越しの分厚い雲を見上げて口にする。
パンを買おうか迷っていた店でテイクアウトしたコーヒーをマグカップに移して、ソファに座る。
コーヒーを一口、口に含むと豆の香りが鼻から抜ける。
あぁ頭から全ての毒素が抜けていく
しばらく目をつむってコーヒーがもたらす解毒効果に身をゆだねる。
大きく深呼吸をして目を開けると
ソファの端にあるキッチン寄りのテーブルランプに手を伸ばす。リビングテーブルに置いてあった読みかけの本をひざ元に置き、しおりをたよりにページを開く。しかし2,3行読んでは目線を上げ、部屋の隅の本棚を見つめ、再び続きを読み進める。何度か繰り返しているうちに、読んでいる内容が頭に入ってこなくなり、ページを開いたままソファへ放り投げてしまった。そして駆け寄った本棚の目につく数冊を引っ張り出して床に並べページをめくっていく。
あぁこれだ
生まれた国から離れて生活拠点を決めた土地の心地よさを改めて写真で確認する。
人間が作り出す建築物よりも
何千年、年億年もかけて自然が作り出してくれた贈り物が国土の大半を占めている国。それは天気すらも人が視る予報通りにはならない。だから自然の驚異を肌で感じ、恩恵に深く感謝する。
床に座り込んでぼんやりと、雨が降り出していた窓をみつめる。手元を照らすようにやわらかく光っているテーブルランプが、白い壁に反射して部屋全体の温度を上げるように包み込んでいく。
雨足が強くなるにつれて外への衝動が強くなる。ついには突き動かされるようにリビングを後にし、いそいそとレインコートとブーツを履いて鍵だけをポケットに突っ込み家を飛び出して歩き始めた。この類の衝動で向かう先はいつも決まっている。
少し小高い所に建つ教会、外観は個性的なたたずまいながら内装のシンプルな美しさは何人をも受け入れ、ここに存在する事の尊さをおしえてくれる、教会の何にふさわしい建物。
入口からはなれた所でレインコートを脱ぎ、鍵とは反対のポケットからハンカチを出して濡れた顔を拭く。雨粒を払ったコートを脇に抱え、なるべく出入り口側の後ろの席に座る。こうして両側の柱から天井へ伸びる美しい曲線の全体を眺めてはうっとりと、ただここに在る時間の中に存在している事を感謝する。
心行くまでこの時間を堪能して外へ出る頃、強かった雨はほとんど止んで強風に変わっていた。そして強い風は防雨装備をしない髪や衣服の間を激しく行き来し、雨雲に残った水滴をも飛ばしてきて頬を湿らせる。こんな状況にあっても教会を後にした今はまるで春のそよ風が耳元を過ぎていくように感じる。
すがすがしさすら噛みしめるように家に着くと計ったように鳴り始める携帯電話。
通話ボタンを押して耳に近づける間に、何をしていたのと心配そうな寂しそうな声が届く。
数時間離れているだけでこの様子。
目が覚めてからのことを思考の移り変わりを交えて話し始めると、ほっと安心したそばから少し申し訳なさそうに変化していく感情が相槌の中から面白いように伝わってくる。
そっちはどうなの?
はっきり言葉にしてこの日感じた空虚感を分かってもらうよりも、彼も味わっただろう自然の壮大な循環の機能。
一人の人間が内に抱える混沌よりはるかに深く長い年月をかけて作り上げられる景色。
今僕がいる所、今夜は見られそうなんだ
準備して
穏やかに、でも興奮をかくせない声が電話越しに弾む。電話をつないだままキッチンに放っておいたパンでお腹を満たし、強風に洗われた髪はそのままに身体だけをシャワーで温めてベッドに入る。
パソコンの電源を入れて通話状態の電話と切り替える。
映し出されたカメラ越しの夜空にオーロラが広がっている。
あぁ世界はこんなにも美しい
自分の腕に頭をあずけ視界全てが画面になるようにパソコンを引き寄せる。
しばらく黙っていたジェシーが口を開いて話しかけてくる時にはすでに光のカーテンに抱かれるように眠っていた。
明日の朝、淹れたてのコーヒーを用意してリリを起こすね
おやすみ
そう囁いたジェシーに気づかれないように頷いた。