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連載小説|パラダイス〔Part11〕

*Part1~13でひとつの物語になります*
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 20分ほどで、あずさが談話室に入ってきた。
「もう、いいのか?」
「うん。隆さんと話せたのは5分くらいで、あとはもう、疲れて眠っちゃったの。あたし、看護師さんが入ってくるまで、寝顔見てたんだ」
 そう言いながら、あずさは自動販売機でオレンジジュースを買うと、さっきまで若松さんがいた、僕の向かいの椅子に座った。
 その両目も、鼻も真っ赤だ。眠った隆さんの隣で、静かに泣いていたのだろうか。
「隆さんにね、あたし何日か秋田に泊まる、って言ったんだけど、断られちゃった」
「おまえは帰れ、って?」
「うん、帰って、会社を守ってくれって言われたの。所長を引き継いだのは、もう長く勤めてる、優秀な会計士なんだけどね。でも隆さん、いくらあいつでも、こなしきれない部分は絶対に出るから、そこをサポートしてくれって」
「なるほどな。隆さんは自分のことより、会社のことを優先したのか」
「隆さんが自分で立ち上げて、苦労して軌道に乗せた会社だもん、大切な宝物だよ。ずっと一緒に働いてきた、あたしにしか任せられないって言ってた」
 だから、帰るのか。
 つらいだろうけれど、あずさらしい結論だ。
「隆さんがお兄ちゃんに、あたしを連れてきてくれてありがとう、って伝えてくれって。あと、自分で直接、お礼を言えなくて、ごめんなさいって」
「そんなことはいいんだよ。それよりおまえ、よく、隆さんの言うことが聞き取れたな。俺、全然わかんなかった」
「そうだね、あたし、よく聞き取れたよね」
 あずさはそう言って、ぎゅっと瞼を閉じ、頭を振った。
 泣きたかったら、泣いてもいい。
「ね、お兄ちゃん、ひとつだけ寄ってほしいところがあるの」
 けれど、妹は泣かずに、再び目を開けて僕を見た。
「どこに?」
「海のほうに、きさかた、っていう道の駅があるんだって。動物の象に、新潟の潟って書くんだけど」
 あずさの説明に、漢字を思い浮かべる。象潟、か。
「道の駅の裏側が、大きな芝生の広場になっててね、日本海がきれいに見えるらしいの。隆さん、ここに入る前、その広場に寄って、海を見てきたんだって」
「ここに、入る前?」
 隆さんの友達と、その息子が、彼をここに連れてきた日のことだろう。
「俺が、自分の足で、最後に歩いて見た景色だよ。隆さん、そう言ってた。だから、あたしも、その景色を見たくて」
「わかった。連れて行ってやるよ」
 そんなの、簡単なことだ。
 自分の足で、最後に歩いて見た景色。それを記憶に焼き付けながら、隆さんはいったい、何を思ったのだろう。
 その時の気持ちが、ほんの少しでもいいから、温かいものであったことを、僕は願わずにいられなかった。

 午前中はホスピスへ向かうため、まっすぐ北上した国道7号を、今度は南へと走る。行くときは景色など、ろくに見ていなかったけれど、道の駅の案内板は、途中にあった気がする。
「昨日、山形通った時も、道の駅はたくさんあったのに、お兄ちゃんもあたしも、ひとつも寄ろうって言わなかったね」
「そういえばそうだな。遊びに来たわけじゃないから、入る気にならなかったのかもしれないけど」
「うん、確かに。象潟の道の駅だって、前を通ったはずだもんね」
 象潟は、大きな道の駅だった。5階建てくらいだろうか、建物の上半分はガラス張りになっていて、どうやら展望台もあるらしい。北に向かった時、どうしてこの存在に気付かなかったのか、と思うほどの規模だ。
 敷地面積も、相当なものなのだろう。広い駐車場には、たくさんの車が止まり、誰もが楽しそうに行き来している。空きスペースに愛車を止めて、歩き出したあずさと僕も、他人から見たら、ただの旅行を楽しむ兄妹と映るのだろうか。
 道の駅に入ると、土産物が所狭しと並ぶ物産館は、たくさんの人で大賑わいだった。きりたんぽ、海産物、地酒などと書かれた楽しげな表示や、秋田にちなんだポスター、にかほが北限だと説明を添えたいちじく製品。こんな時でなければ、僕も楽しくそれを眺めただろう。
 でも、僕たちは物産館を素通りして、建物の裏側へと急いだ。隆さんが最後に歩いた芝生の広場は、その奥にあるのだ。数分のはずの時間が、やけに長く感じられる。
 そして、外に出た時。
「すごい、海」
 それまで黙っていたあずさが、呟いた。

 そこは、店内の賑わいが嘘のように、静かな場所だった。
 よく手入れされ、綺麗に広がる緑の芝生が、青に輝く日本海へと広がっている。春の淡い空と、深い海との境目は、ひときわ色を濃くした水平線でくっきりと区切られ、コントラストに見惚れてしまいそうだ。
 その海を背にして、髪を頭の上でひとつに結い、岩に腰かけた、白く大きな女性の像がある。どちらからともなく、僕たちはその像のそばまで歩き、海に近づいた。
 波が寄せるたびに、陽光がきらきらと弾かれ、小さく揺れる。遊ぶような、歌うような、軽やかな輝き。
「水平線の上に、島影があるの、わかる?」
 あずさが、そう言いながら指さすほうを見ると、確かに小さい山のような影がある。
「とびしま、っていうんだって。飛ぶ島って書いて、飛島」
「飛島か。隆さんも、見えたのかな」
「見えたって言ってた。隆さんが来た日も、晴れてたんだって」
 彼も、この景色を見たのか。海と空、そして芝と女性の像が織りなす、色の世界。その日の太陽も海風も、きっとこんなふうにやわらかく、やさしかったのだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
 その海風を受けながら、あずさが小さな声で、そっと僕に言う。
「ん?」
「隆さんの隣はね、あたしにとって、パラダイスだったよ」
「パラダイス、か」
「うん、そう。あたし、本当に幸せだった」
 そして、次の瞬間、あずさは崩れるように、その場に座り込んでしまった。

「隆さん」
 僕の妹が、膝を抱えて、最愛の人の名を呼ぶ。 
「……隆さん。たかしさん!」
 そして、声をあげて泣き始めた。
 隆さんの灯が消える悲しみも、変わってしまった姿を見たショックも、あずさはきっと、必死に押し込めていたのだろう。それらをすべて解き放つ、動物が吠えるような泣き声。
 僕も、あずさの隣に座り、同じように膝を抱えた。
 それでいい。泣きたいだけ泣け。叫びたいだけ叫べ。
 おまえはもう、どんなに望んでも、何をしても、あのパラダイスには帰れないのだから。
 隆さん、隆さん。あずさの声が、どうしようもなく苦しい。
 さっきはちゃんと見えたはずの、飛島の島影が、視界の中にぼんやりとにじみ、どうしてもわからなくなっていた。

〔Part12へ続く〕

見出し画像:tenさんnew dawn

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