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連載小説|パラダイス〔Part8〕

*Part1~13でひとつの物語になります*
Part1はこちら前回はこちら

 風呂を終えて、僕が部屋に戻ると、間もなくあずさも帰ってきた。
「お兄ちゃん、ビール飲もう」
 そう言いながら、自動販売機で買ってきたのだろう、500mlのスーパードライの缶を二本、丸テーブルの上に置く。
「おっ、ありがとう」
「いっぱい運転して疲れたでしょ。これ飲んで、ぐっすり眠って」
 正直、本当にありがたい。のどの渇きと空腹を、同時に思い出した僕は、丸テーブルの椅子に座り、コンビニで買った幕の内弁当を広げた。
  向かい側に座った、あずさが袋から取り出したのは、枝豆とちょっとしたチーズ、きゅうりと蒸し鶏をあえたサラダだけだ。
「おまえ、そんなもんしか食わないの?」
「うん、最近、あんまり食欲なくて。昼間、サービスエリアでラーメン食べたのが、久しぶりのまともな食事だったの」
「まあ、無理もないよな」
 確かに、あずさは以前に比べて、ずいぶんと痩せた。
 缶ビールのプルタブを開けて、こみ上げそうになる感情ごと飲み下す。かわいそうだ、などと思っていることが、もしもばれてしまったら、妹は絶対に怒り出すだろうから。
「食うのはともかくとして、ちゃんと寝れてるのか?」
「うん……実はね、それもあんまりうまくできなくて。でも、心療内科で、眠れる薬を出してもらってるの。さっき、お風呂上がりに飲んだから、今日はそのうち、眠くなるよ」
 食べられない、眠れない。生き物としての本能が機能できないなんて。
 妹の現在が、どうしようもなく、叫びだしたいほど悲しい。
「ね、お兄ちゃん」
 あずさは僕を呼び、そして、そっとうつむいた。
「あたし、最後にもう一度、隆さんに会いたくて……彼が嫌だって言っても、もう一度だけ、どうしても会いたくて。だから、最初は独りで、秋田に行こうと思ったの」
「独りで? 電車でか」
「うん。これは、隆さんとあたしの人生だから、たとえお兄ちゃんでも、そのために誰かに迷惑かけるのは、違うんじゃないかと思って」
「迷惑だなんて、俺が思うかよ」
「そうだよね。でも、その時は、迷惑かけちゃうって思ったの。だけどね」
 そこまで一気に言い、あずさはビールを飲むことで、少し言葉を切った。
「あたし、自信なかったんだ」
 そして、再び話し出す。
「隆さんに会ったら、多分……今の彼を見たら、もう死んじゃうんだなって、絶対に実感するよね。その後、ちゃんと独りで、家に帰る自信がなかったの」
 絞り出すような声が、揺れる。
 次の瞬間、気が強いはずの妹の瞳から、ぽろぽろと涙があふれ始めていた。
「駅で電車に飛び込んじゃうか、ホテルの屋上から飛び降りるか……もし、隆さんと暮らした部屋に、帰れても……あたし、自分自身に、何するか、こわくて」
「あずさ」
「おにい、ちゃ……ごめん……」
「どうして、そこまで独りで抱え込んだんだ」
 秋田に連れて行ってと言われるまで、全然知らなかった。
「大人になっても、しわくちゃの婆さんになっても、おまえは俺の妹なんだよ。俺がいちばん、おまえとは長いつきあいなんだ。困ったことがあったら、何だって言えばいいんだよ」
 僕ももう、涙を我慢できなかった。
「京子だって、あずさのことは、妹みたいに思ってる。チビたちも、おまえが来れば、あずちゃんあずちゃん、って取り合いだよ。わかってるんだろ?」
「……ん」
「おまえが悲しんだり、いなくなったりしたら、うちのチビたちは大泣きだよ」
 あずさは、もう何も言わなかった。言葉の代わりに、こぼれ続ける涙が、抱えてきた悲しさや苦しさを、強く物語っている。僕は自分の目をぬぐい、泣いていることに気づかれないよう、そっと頭を振った。


《day 2》

 翌朝の空も、文句のつけようがないほどの快晴だった。
「お兄ちゃん、よく寝れた?」
 椅子に座り、濡れたタオルを目に当てたあずさが、僕を見ずに訊いてくる。寝る前に泣いたせいで、まぶたが腫れたのだろう。
「寝れたよ、ぐっすり。あずさもちゃんと眠ったみたいだな」
 昨夜、薬が効いたあずさは、泣き疲れたのも良かったのか、ベッドにもぐりこむと同時に、寝息を立て始めていた。
「うん、あんなに眠ったの久しぶり。朝まで起きなかったなんて、いつ以来だろ」
「でも、まぶたは大変か」
「温めたり冷やしたりすれば、だいぶ落ち着くと思うから大丈夫」
 いくつになっても、女性は大変だな。そう思うと同時に、あずさは隆さんに、泣き腫らした目を見せたくないのかもしれない、ということに気付く。
 途端に、僕は緊張を感じ、小さく息を吐いてそれを逃がした。今日はあずさに、いろいろと気を遣ってやる必要があるだろう。

 ホスピスの面会時間は、12時から15時だ。ナビで調べたところによると、僕たちがいるホテルからは、国道7号を走って、一時間ちょっとで着くらしい。チェックアウト時間ぎりぎりの10時に出れば、ちょうどいいくらいだ。
 食欲がないとぼやくあずさを、牛乳一杯だけでもいいから飲めと、なかば強引に朝食会場へ連れていった。バイキング形式の朝食が、無料で用意されているのだ。サラダやウインナー、焼鮭など、よくあるビジネスホテルの朝食だけれど、とてもありがたい。
 おそらく、昼食は食べられないだろうから。
 僕はご飯と味噌汁におかずという、しっかりした食事を選んだけれど、あずさはヨーグルトと果物、小さなパンをひとつとコーヒーだけだ。それでも、ちゃんと噛めるものを取ってきてくれたことに、少しほっとした。
「あたしのまぶた、大丈夫?」
 オレンジの皮を取りながら、あずさが僕に確認する。
「まだ少し腫れてるけど、言われなきゃわかんないよ」
「じゃあ、化粧すればごまかせるかな」
「多分、大丈夫だろ」
 それからは、僕たちはもう何も話さず、目の前の食事に専念した。
 その瞬間が、もうすぐそこまで来ている。病身に無理をして、こんなに遠くまで「帰ってきた」隆さんに再会する、その瞬間。隆さんがせめて、普通に会話を交わせる状態であることを、僕は信じてもいない神様に、心の中でそっと祈った。

〔Part9へ続く〕

見出し画像:tenさんnew dawn

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