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〔小説〕ひまわりの足跡・全文

※3回に分けた小説の全文掲載です※

 水曜のローカルニュースを見て、ひまわり畑で有名な、隣県の高原へ行きたいと言い出したのは、妻のほうだ。
 今週末が見頃なんだって、ね、良かったら連れてって。 その小さな願いに、僕は苦手な早起きをして、車を出し、急勾配のカーブをいくつも抜けて・・・・・・そして今、眠ってしまった息子を抱いて、ひまわり畑の前に立っている。
「すごいな、これ」
 目の前にあるのは、抜けるような青空と、洪水のような一面の黄色。二色のコントラストが、まるで夏を見せつけるように、鮮やかに広がっていた。
「すごいね、テレビ以上」
 僕の右側で、妻もため息混じりに呟く。
 いったい、どこまで続いているのだろう。視界の奥へ奥へ、延々と続く花畑が、心地よい風を受けて、歌うようにやさしく揺れている。足元から始まる、細い小道に踏み出せば、そのうち花に埋もれてしまいそうだ。
「ふわぁ、ん、パパ?」
 腕の中で、眠そうな声が僕を呼んだ。息子がいつの間にか目を覚まして、僕の顔を見上げている。
「おはよう。ひまわり畑についたよ」
「ひまわり? ・・・・・・うわぁ!!」
 振り返った瞬間、息子の眠気は完全に飛んだらしい。僕の腕から降りようと、小さな脚をばたつかせ始めた。妻が靴を履かせると、彼は飛び降りるように僕の腕から離れ、ひまわりの中に駆け込んでいく。
「あっ、待って、ひとりで行っちゃ駄目!」
 妻が慌てて、その後を追った。程なく息子を捕まえ、手をつないで、ひまわりの奥へと歩き始める。
 その様子に、僕はふと、心の箱にしまったはずの、古い記憶を思い出した。ひまわり・・・・・・そう、ひまわりの記憶。
 但し、花ではなく、それは一人の女性のことだ。顔中をくしゃくしゃにして笑い、いつも穏やかで、丸い瞳を輝かせていた、あの人。彼女のことを、まるでひまわりのようだと思っていたのは、僕だけではなかった。

◇◆◇

 あの人に初めて会ったのは、高校を卒業した僕が、新卒で入った会社の、経理部の片隅。十歳歳上の彼女は、僕の右隣の席で、短時間の契約社員として勤務していた。
 まっすぐな長い髪をひとつに束ね、桜色の口紅の薄化粧、白いブラウスに紺色のベストとスカート。絵に描いたような、少しだけ美人の事務員さんだった。
「仕事の指示は俺が出すけど、わかんないことは彼女に訊いて。係でいちばん詳しいから」
 教育係の男性社員は、僕の向かいの席にいたが、これをこうしてこうやって、と説明を一度だけした後は、いつも自分の仕事に没頭してしまった。当然、ひよっ子の俺は、それだけで仕事をこなせるはずもなく、ひっかかる度に、彼女に救いを求めることになる。
「すみません、ここ、どこから持ってきた数字かわからないんですけど・・・・・・」
 何度も声をかける僕に、彼女は苛立ちもせず、同じ説明を繰り返ししてくれた。
「ここね、Excelの関数を組んであるから、答えは自動で出ちゃうんだけど、それじゃ計算の意味がわかんないでしょ? 事務費をさらにここで分けててね」
 彼女はまず、電卓を打つのが、経理部の誰よりも早かった。右手にペンを持ったまま、利き手はない左で、華麗に数字を叩くのだ。専門学校で簿記を学んだ時に、電卓は左で使えって仕込まれたの、と笑っていた。
 そして、経理には詳しく、その豊富な知識で、上役からの相談に乗ることもあるほどだった。何しろ、取締役でもある部長が、幹部の決算会議に、彼女を同行させていたのだから。そんな一般社員は、彼女の他にはいなかった。
 勿論、日々の業務も、あの人がやったなら間違いないよ、と誰もが言うほど的確で、しかも早い。実際、彼女は十時から三時の勤務時間で、正社員同様の仕事をこなしていた。
「なんで、あの人は契約社員なんですか? あんなに仕事できるのに、短時間なんてもったいないですよね」
 教育係の先輩に、思わず聞いてみたのは、入社してふた月が過ぎた頃だろうか。
「そうなんだよ、旦那はいるけど子供はいないし、フルタイムでやれるはずなんだ。部長も何回か、社員にならないか、って声かけたらしいけど」
「本人が断ってるんですか?」
「らしいよ。給料もボーナスも全然違うんだから、受けりゃいいのに。まあ、俺等が知らない家庭の事情とか、あるのかもしれないけどさ」
 確かに、その通りだ。しかし、彼女はいつも、悩みなど一グラムもないような笑顔で、明るく振る舞っていた。

 仕事はなかなかに忙しく、会社で毎日顔を合わせてはいても、彼女と世間話をする時間は、それほど多くはなかった。
「だからね、この分は減価償却ってことになって、損失を五年に振り分けるの」
 けれど、どんなに忙しくても、彼女は僕の疑問に、きちんと説明をしてくれた。処理の方法だけでなく、どうしてそうするのか、根拠までしっかりと。
「随分細かく教育してるね、先生。まだ一年目の新人に、そこまで言ってもわかんないんじゃない? 私だったら、もっと簡単な説明で終わるけどな」
 同僚がからかい半分にそう言っても、彼女は気にも止めなかった。
「うん、今はわかんないと思う。でもね、この先、仕事を続けてれば、知識も増えてくじゃない? その時に、二年後でも五年後でも、私がこんなこと言ってたな、って思い出してくれればいいなって」
「先の長い話だわね、できる人は言うことが違うわ」
「そんなんじゃないよ、私の自己満だもん」
「自己満かあ。でも、もしかしたら、それで大化けしたりしてね」
 恋愛感情を持っていたわけではない。後から考えると不思議なほど、当時の僕にそれはなかった。
 抜群に仕事ができ、何故か僕に、その知識を惜しみなく教えてくれる。そんな彼女に対する感謝は、女性にというより、師匠に向ける性質のものだったからなのかもしれない。
 それでも、社会に出たばかりで、右も左もわからない僕の目に、彼女は眩しいほど素敵に見えていた。空に向かって、真っ直ぐに凛と咲く、一輪のひまわりのように。

 彼女は毎月、第二月曜に休みを取る。入社して四ヶ月が経った七月、僕は初めて、そんなルーティンに気付いた。
「ああ、あの人は毎月そうなんだよ」
 教育係の先輩が、唾を吐くような口調で言うのを聞いて、彼が彼女を良く思っていないことに、僕は初めて気がついた。
「何か用事あるんですかね?」
「用事っていうかさ、不妊治療してるって噂だぞ」
「不妊治療・・・・・・」
 聞きなれない単語でも、意味はわかった。
「大変なんですね」
「ってか、そのくらいあっても仕方ねえだろ。部長のお気に入りだし、旦那も営業にいるけど、エリートコースでさ。不妊治療がなけりゃ、社員でばりばり働いてたかもしれないけど、俺等にとっちゃ、そんな女目障りだし」
 良く思わない原因は、ただの嫉妬だったらしい。
 その頃、彼女が教えてくれる経理やパソコンの知識を、僕は正直、あまり理解できていなかった。商業高校で、簿記や表計算については学んだものの、通り一遍なその知識を、なかなか実務に結び付けられなかったのだ。
 それでも、僕はわからないなりに、彼女に教わったことを、全て書き留めていた。三時に彼女が帰宅すると、僕は机にノートを広げ、その日に言われたことを、機械のように綴る。何となく、そうしておかなければ、いつか強く後悔するような気がしていた。
「短時間より正社員の方がいいなって、思うこともあるんですか?」
 ささやかな疑問を、やっと声に出せたのも、同じ頃のことだ。思い切って聞いてみると、彼女は少しだけ考えてから、時々思うけどね、と口を開いた。
「でも、ほら、私結婚してるしね。社員になれば、月末月初は残業確定だし、旦那のご飯作れなくなっちゃう」
「そうかもしれないけど、でも、勿体なくないですか? 社員になれば、仕事のやりがいも増えそうだし、ボーナスだって上がるのに」
 僕の不躾な問いに、彼女はきゅっと笑顔を浮かべた。二重瞼の目尻が思い切り下がり、桜色の唇から白い歯が覗く。くしゃくしゃの、子供のような笑顔。
「それより、私は旦那が大事だもん。仕事も好きだし、すごく大切だけど、最優先なのはそこじゃないし」
 ああ、この人は幸せなんだな。単純な僕は、そんな彼女と、営業部にいるご主人を、ただただ羨ましく思っていた。彼女の言葉の後ろに、もっと深刻な、本当の理由があることなど、これっぽっちも見抜けずに。
 お盆休みがあったせいか、八月は第一月曜だったが、彼女は九月も第二月曜に休みを取った。
 不妊治療という噂が本当なら、早く望みが叶って欲しい。そう思う一方、彼女が産休や退職ということになったら、もう仕事を教えてもらえない。それは困る、というわがままも、僕は同時に抱えていた。
 今は新人でも、いずれは彼女のように、周りから嫉妬されるほど、仕事をこなせるようになりたい。僕の中にもいつの間にか、そんな欲が、少しずつ生まれ始めていたのだ。
  本当に、本当に僕は、何もわかっていなかった。

◇◆◇

「パパー!」
 幼い声に呼ばれて、過去に思いを馳せていた僕は、ふと我に返った。
 一面に咲く、海のようなひまわり。その隙間から、息子が笑って手を振っている。僕の幸福と、確かな現在の象徴。
「どうしたの? ぼんやりしちゃって」
 その隣から、妻も僕に声をかけてきた。
「あ、ごめん、ちょっと考え事してた」
「仕事のことなら今日は忘れてよ、休みなんだから」
「大丈夫だよ、忘れてるから。そうだ、写真撮ってやるよ」
 スマートフォンを取り出し、妻と息子にレンズを向けたる。ピースサインの笑顔を、風景ごと何枚か切り取ると、二人はまた手をつないで、ひまわり畑の奥へと歩き始めた。
 ああ、さっきもこうだった。過去への回想は、この後ろ姿を見ているうちに始まったんだな。
 そしてまた、僕の中の記憶時計が、あの頃へと巻き戻って行く。

◇◆◇

 社会人になって最初の十月、半期決算がやって来た。
 毎月の月初には、前月一ヶ月分の損益計算書と貸借対照表、そして関連する必要書類を出しているが、この月はそれに加えて、半年分のものも出さなくてはならない。決算時に処理する特別な勘定もあり、経理部はめいっぱい慌ただしくなった。
「三月の本決算は、もっと大変だからね。今回説明すること、今はよくわかんなくても、しっかり聞いててね」
 そう前置きして、決算の何たるかも知らない僕に、彼女は相変わらず、きちんと説明をしてくれた。
「これはね、上期に仕入れたけど下期に売るものの原価を、下期に持ち越してるの。上期の原価は、上期の売上に対応する分だけ、反映させなきゃいけないから」
「・・・・・・えっと、でも、支払いは上期に出たんですよね」
「そう、だから決算の時に、この処理で辻褄を合わせるわけ」
 自分の仕事を、決算業務までこなしながら、僕の指導までするのは、彼女にも負担だったのだろう。普段は、三時ちょうどに帰宅する彼女も、この時期は毎日のように、五時頃まで残業をしていた。
「なあ、それ、今やらなきゃいけないことか?」
 そんな彼女に、先輩の男性社員が苛立ちをぶつけたのは、経理部の緊張感がピークに達した頃だった。
「初めて半期やる新人に、そんな細かい説明しても、どうせわかんねえだろ。来週までに決算書出さなきゃいけないんだよ、今はとりあえず業務やらせて、落ち着いてから説明しろよ!」
 部内だけでなく、フロア中に響くような怒鳴り声。その原因が自分にあるのだから、僕はどうしていいかわからず、俯くことしかできなかった。
 しかし。
「駄目ですよ。今、ちゃんと説明しないと」
 彼女は、いつもの穏やかな口調のまま、きっぱりと反論したのだ。
「忙しいからって、目の前の仕事を右から左に流すだけじゃ、何も頭に残らないですもん。後で説明しても、何が何だか、全然わかんなくなりますよ」
「今はそれでいいだろ、わかんねえんだから。そのうち回数こなせば、自然に覚えるだろうが」
「業務のやり方は、確かに覚えますよ。でも、どうしてこうなるのか、どこからこの数字が来てるのかとか、大事なことはわかんないままになります」
「今、いちばん大事なのは、決算書の納期だろうが!」
 頼むからやめてくれよ。そう願いつつも、僕は何も言えず、冷や汗をかきながら俯き続けるしかなかった。彼女が、どんな表情で反論しているのかさえ、見ることができずに。
「まあまあ、こんな時に喧嘩しなくてもいいだろう」
 二人の間に、課長の声が割って入った。決算書も大事、新人を育てるのも大事。残業して頑張ってくれてるんだし、スケジュールも遅れてないんだから、別にいいだろ?
「ったく、上に気に入られてるやつは、やりたい放題でいいよな」
 先輩が、捨て台詞を置いて仕事に戻り、僕はやっと、顔を上げることができた。そして、どんなに怒っているかと、おそるおそる彼女の顔に目を向けて。
 けれど、それに気付いた彼女は、不機嫌どころか、涼しい顔で笑ったのだ。
「・・・・・・なんだか、すみません」
「気にすることないの、私が好きで細かく説明してるんだから」
 どうしてここまで、彼女は僕を育てようとするのだろう。その時、ふと浮かんだ疑問は、彼女が再び説明を始める、はきはきした声の中に溶けて、静かに消えていった。

 会社の外で、僕は一度だけ、彼女に偶然会ったことがある。
 ハロウィンが終わり、店のデコレーションが、ジャック・オ・ランタンからクリスマスツリーへ一気に変わった、土曜日の午後のことだ。新しいコートが必要になり、独りでショッピングモールを訪れたとき、チョコレート売り場の前で彼女を見つけた。
「わ、偶然!」
 綺麗なグリーンのセーターに、ベージュのフレアスカートを合わせ、真っ直ぐな長い髪を下ろして。そんな彼女は、会社での事務服姿より、少しだけ若く見えた。
「独りなんですか? 旦那様は?」
「休日出勤なんだって」
「いつも忙しそうですもんね、営業って」
「営業はそれくらいでちょうどいいの。会社にお金を持って帰れる部署、そこしかないんだから」
 少しお茶でも飲もうかという話になり、僕達はショッピングモールの中にある、スターバックスに向かった。混雑の中、ひとつだけ空いていたテーブル席を、彼女のハンカチで何とか確保して。
 あまり時間がないという彼女は、ショートのチャイティーラテ、暇な僕はトールのカフェラテ。彼女の分も払うつもりが、逆に奢られてしまった。
「休みの日は、いつも外に出るの?」
 普段は仕事の話ばかりしている相手と、いきなり休日に向かい合っても、何を話せばいいか困るものだ。必死に話題を探す僕より、彼女の方が、話のきっかけを掴むのが早かった。
「俺、あんまり出かけないんです。友達に誘われれば、遊びに行きますけど」
「私もそうだよ、家事したり、うちの猫と遊んでると、あっという間に休みなんて終わっちゃう。旦那も疲れてるしね」
「あ、でも俺、この間部長に、簿記一級取れって言われれちゃったんですよ。だから、これからは勉強しないと。難しい、ですよね?」
 その資格を、彼女は専門学校で既に取得していた。
「難しいよ」
 案の定、予想通りの答え。
「やっぱり。俺に取れるのかな」
「取るの。取らなきゃ。これからの会社の風当たり、絶対変わるもん。私、期待してるんだからね」
 彼女にしては珍しい、強い口調だった。
「期待? 俺にですか」
「期待してなきゃ、細かく仕事教えたりしないでしょ」
 チャイティーラテのカップを持つ指先に、ラベンダー色のネイル。こんな話をしているのに、僕は何故か、その色に一瞬、目を奪われた。
「そういえば、どうしていつも俺に、あんなに詳しく、いろいろ教えてくれるんですか?」
 素直にそうきけたのは、ネイルに心を少し逃がしたことで、逆に話がしやすくなったせいかもしれない。
「私もね、一度くらい、人を育ててみたかったの」
 そして、答えが返ってきた。
「人を、育てる?」
「私、いろいろあってね。専門学校を出て、今の会社に入ってからずっと、短時間で働いてきたの。でも、ほら、うちの会社、新人が来ても、教育係は正社員にしかやらせないじゃない?」
 確かに僕の会社は、正社員と非正規の間に、はっきりとした線を引いている。上役に頼られる短時間社員など、彼女ひとりだけだった。
「でも今回、教育係じゃないけど、実質は私がいろいろ教えていい、って言ってもらえたのね。だから、私、張り切っちゃって。初めて、新卒の新人に、自分が持ってるものを伝えられるんだなって」
 そんなものなのかな、キャリアを積むと。
 人を育てたいという気持ちが、社会に出たばかりの僕には、まず理解できなかった。知識があるから、自分の力を誇示したいと言うならわかるけれど、努力して得たその武器を、赤の他人に伝えたいなんて。
「私、専門的なことも、勝手にがんがん話しちゃってるけど」
「まあ、正直・・・・・・よくわかってない、です」
「でも、私が言ったこと、毎日ノートに書いてくれてるって言うのは、前から聞いてるよ。私、それがすごく嬉しくて、もっといろいろ教えたくなっちゃうんだ」
 走り書きのあのノート。ただ書き続けているだけの。
「仕事ってね、最初は意味がわかんなくても、ある日突然、電気が通ったみたいに、いろんなことが見える時が来るの。そうなった時に、そのノートが役に立ったら、私もきっと、改めて嬉しくなるって思うんだよね」
 そんな日が本当に、僕にも来るのだろうか。その時の僕には、目の前で彼女が紡ぐ言葉さえ、飲み込めていなかったのだけれど。
「でも、私がずっとあそこにいるとは限らないし、いつまで教えられるかも、正直わかんないじゃない? だから、自分で簿記の勉強して、一級を取るのも、すごくいいことだと思うよ」
「そんな、ずっといてくださいよ」
「それは無理でしょ。私もいろいろあるもん」
 そういえば、不妊治療をしているという噂があった。そうか、たとえばそれが実って、子供を授かったら、今のままではいられないのか。
「だからね、頑張って。私が協力できる間は、いろいろサポートするから」
 にっこりと、大きな笑みを浮かべながら言うと、彼女はカップに口をつけた。明るい、何度も見た笑顔。
 そうは言っても、彼女が会社を去るのは、まだ先のことなのだ。ずっと先の話なのだから。
 その時、馬鹿な僕はそんなことを思い、呑気にカフェラテで喉を潤していた。

 そして。
 十日後、異変が起きた。

◇◆◇

 突然、頬に何かが触れる感触が、僕を現在へと引き戻した。
 昔のことを思い出すうちに、いつの間にか数歩、足を進めていたらしい。僕の頬を撫でたのは、小道の端に咲く、背の高いひまわりだった。
 あれ、どこ行ったかな。妻と息子の姿を求めて、僕は小道の先に目を向ける。意外と遠くに、手をつなぐ二人の姿があった。
 もし、今の僕を彼女が見たら、いったい何と言うだろう。
 住宅ローンを返済しながら、家族と自分のために、働き続けるマイホームパパ。会社では、先日、経理二課長への内示を受けたばかりだ。高卒社員としては、異例の若さでの出世だし、幹部候補への第一歩だと、部長が上機嫌で言ってくれた。
 今では、彼女に教わったことを書き留めた、ノートの中身を、すべて理解できている。簿記一級も取得したし、前々回の決算からは、部長に同行して、幹部の決算会議にも出席するようになった。家庭も仕事も、今のところ順風満帆だ。
 人を育ててみたかったと、彼女は言った。
 それなら、今の僕は、彼女が育てたかったような社会人に、ちゃんとなれたのだろうか。
 できることなら、彼女に会って、その答えを聞いてみたい。よく頑張ったねと言ってくれるか、それとも、まだまだだよと笑われてしまうのか。
 けれど、もう二度と、彼女に会うことは叶わない。
 妻と息子の姿が、少しだけ大きくなり、僕はふたりが、こちらへ歩いているのだと気がついた。程なく、僕のところに戻ってくるだろう。
 それまでの間、もう少しだけ、昔のことを思い出していたい。
 短いタイマーを頭の隅にセットして、僕はまた、思考回路を逆回転させていく。

◇◆◇

 それは、突然過ぎるほど、突然の出来事だった。
「えっ! ね、ねえ、大丈夫?」
 通路の方向から、鋭い声が飛んできた時、パソコンに向かっていた僕は、条件反射でそちらを振り向いた。経理部員、誰もが同じだったと思う。
「どうした!」
「何だ、何があったんだ」
 コピー機の前に、二人の女性がしゃがみこんでいた。
 一人は、うずくまったもう一人の背中を擦る姿。そして、その背中は・・・・・・。
「どうしたんですか!!」
 僕は叫びながら立ち上がり、その背中に駆け寄った。
 胸を押さえ、苦しそうに肩を震わせていたのは、彼女だったのだ。
 周りに集まったみんなが、名前を呼んでも、彼女は答えられなかった。くっ、くっと喉が鳴る音と、小さな呻きしか返ってこない。
 何なんだ、これ。どうして、一体何が起きているんだ。
「誰か救急車、早く!」
「あと、営業に内線して、旦那さん呼んで!!」
 誰かの声に誰かが反応し、受話器を持ち上げていたが、僕は足がすくんで、ただそこに立ったまま、何もできなかった。
 少しだけ見える横顔が、ひどく赤みを帯びて、大量の汗を流していた。明らかに、まともな呼吸をできていない。さっきまで、ついさっきまでいつも通り、彼女は僕の質問に答えていたのに。
 ばたばたと慌てた足音が響き、彼女のご主人が、フロアに駆け込んできた。膝をつき、彼女を腕に抱えると、大丈夫だ、大丈夫だと呪文のように繰り返し始めて。
「救急車、すぐ来ます! 私待ってて案内します!」
 女性の声がしたけれど、誰のものかわからなかった。
 どうして、一体何が、どうして。
 どうしてこんなに苦しがっている?
 大丈夫なの、どうしたの、病気なの、苦しいの。さまざまな声がぐるぐると渦を巻き、僕はそれに飲み込まれる。動けない、どうしたらいいのか全くわからない。
 救急車のサイレンが聞こえ、そして、すぐに大きくなった。ストレッチャーのキャスターの、救急隊員達が駆けつける、不揃いな足音。声の渦にそれらが混ざりこんだ時、僕は初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「大丈夫だ、な、大丈夫だからな」
 渦の真ん中から、彼女に呼びかける、ご主人の声が聞こえる。けれど彼女は何も話せないまま、苦しんだまま、ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に消えてしまった。

 ・・・・・・消えて、しまった。

 翌朝、経理部員が全員集められ、部長から説明があった。彼女自身に口止めされていたから、誰にも話さなかったのだが、という前置き付きで。
 彼女には、中学生の頃から、心臓に持病があった。
 最初から正社員ではなく、短時間での職に就いたのは、無理がきかない身体だったせいだ。毎月、第二月曜に休みを取っていたのも、実は不妊治療ではなく、病気の定期診察のためだったと、その場で初めて明らかになった。
「いつか酸素ボンベが必要になるし、それでも、そんなに長くは生きられない、彼女はそう言っていたよ。でも、ボンベにさえ辿り着けなかった・・・・・・」
 いつもは気丈な部長が、そこまで話してハンカチを取り出すと、もう何も言えなくなった。その涙に、いくつもの嗚咽が、葬送のように続いていく。若い人の死を、他の誰かの口から聞かされたのは、それが初めてだった。
 頭が、動かない。声も出ない。どうして彼女が、いくら病気だったからって、どうしてこんなに突然。
 答えは自動で出ちゃうんだけど、それじゃ計算の意味がわかんないでしょ? 事務費をさらにここで分けててね。ふと、彼女の声が頭の中に響く。どうして、こんなにも悲しい時に、仕事を教わった時の声など、思い出すのだろう?
 本人の遺言で、葬儀は家族葬で、ささやかに執り行われた。まだ三十歳になったばかりの女性が、そんな遺言を残していたのだ。明るい笑顔の裏で、彼女は自分の寿命が、もうそんなにないことを、わかっていたというのだろうか。
 半年と少し、僕を育ててくれた先輩の姿はもう、隣の席になかった。複雑な仕訳の仕方も、Excelの関数の組み方も、彼女には二度と相談できないのだ。
 社会に出てから、彼女の支えが当たり前だった僕には、それを外された自分自身を、どう扱っていいのかさえ、まったくわからなかった。

 彼女が亡くなって以来、しばらく休みを取っていたご主人に、渡したいものがあると呼び出されたのは、彼が復職した直後のことだ。彼女とスターバックスでお茶を飲んだ頃、クリスマス一色だった街は、いつの間にかハートだらけの、バレンタイン仕様に染められていた。
「悪いな、話したこともないのに、突然呼び出して」
 彼が言った通り、それまで僕達には、なんの交流もなかった。同じ会社にいて、お互いに顔と名前は知っていたけれど、ただそれだけだったのだ。
「いえ、大丈夫です」
 彼女と行った店舗とは別の、路面店のスターバックス。僕はあの時と同じカフェラテ、そして彼のマグカップには、彼女と同じチャイティーラテが満たされていた。
「妻と俺は、高校時代の同級生でね」
「そんな長いつきあいだったんですか」
「十五年くらいか。まあ、確かに長かったな」
 彼女を失って、彼は僕の目に、一気に老けたように映った。酷く痩せて、目の下に痣のようなくまが浮かんでいたせいだろう。
「あの頃のあいつは、可愛かったよ。明るくて、よく笑ってて。ひまわりみたいだなって、いつも思ってた。それは結婚してからも、多分、今でもな」
「ひまわり・・・・・・わかります、その感じ」
 僕がいつも、思っていたのと同じ印象を、もっともっと長い間、彼は抱き続けていた。
 でも、もう、その花は咲かない。
「あいつの心臓は、高校の時にはもう、病気に取り憑かれてたよ」
 張りを失った、以前とは別人のような声。
「まだ、日常生活に問題があるほどじゃなかったけど、 体育なんかはいつも見学だったし、修学旅行にも行けなかった。俺がほとんど一目惚れで、思い切って告白した時も、他の女の子のようにはいかないからって、最初は断られたよ。それでもいいって押しきって、やっとつきあい始めたんだけどさ」
 何と相槌を打てばいいのかわからず、僕は、黙って話を聞くことしかできなかった。
「進路を考えた時、あいつは、身体を使う仕事はできないから、事務系で行くしかないって言ったよ。重いものは持てないし、無理もきかない。だから、どこの会社でも必要で、専門知識を求められる経理の勉強をする、そう言って、簿記の専門学校に行ったんだ」
 それで、彼女はあんなにも豊富に、経理の知識を持っていたのか。
 無理がきかない身体でも、収入を確保できるように、必死にそれを身につけたのだろう。通院で定期的に仕事を休んでも、もし何度か入院したとしても、抜群に仕事ができる存在であれば、会社はおそらく手放さないし、他の会社に移るのも簡単になる。
若かった彼女の考えが、僕にも何となくわかる気がした。
「本当はあいつも、フルタイムで思いっきり、働いてみたかったんだと思うよ。学校以外にも、経理や財務関係の本、片っ端から読んでたし、パソコンもだいぶ勉強してた。でも、 病気は確実に進んで、就活の頃にはもう、フルタイムは厳しくなってた」
 顔中をくしゃくしゃにしたあの笑顔が、頭の中にぱっと蘇った。どれほどの悔しさや悲しさが、その後ろに隠されていたのだろう。僕には、少しも見せなかった彼女の陰。
「幸い、俺と同じ会社に入れたから、それは安心だったよ。何かあれば届くとこに、いつもいられるってね。実際は、俺に外出や出張もあって、そんなに甘くなかったけど」
 彼が両手で握ったカップの中で、チャイティーラテの水面が、小さく波打っていた。
「実は去年の今頃から、あいつの病気は、急に進んだんだ。酸素ボンベが手放せなくなるのも、そんなに先じゃないって、はっきり言われたよ。そして、そうなる前に、突然の発作で命が絶たれることも有り得る、ってね」
「一年前・・・・・・そんな、急に」
「あいつは、何も残せなかったって思い切り泣いたよ。子供も産めなかった、仕事も思うようにできなかった。私が死んだら、自分の足跡なんかひとつも残らない、何よりそれが悔しい、って」
 ・・・・・・だから。
 だから、だったのか。
 それを聞いた瞬間、僕は無意識に、背筋を伸ばしていた。
 穏やかな彼女が、同僚に反論してまで、僕に仕事を教えようとした理由。
 だから・・・・・・だったのか。
「わかったみたいだな」
  彼が、そんな僕を見て小さく笑った。
「その年に、新人が入ってくると知って、彼女は部長に直談判したんだ。自分に、その新人を育てさせて欲しい、って。君を育てることで、彼女は自分の足跡を、どんなに小さくてもいいから、この世に残そうとしたんだよ」
 僕が、彼女の最後の可能性だった。
 歩んだ足跡を残せる、最後の可能性だった。
「どこまで残せたのか、俺には正直わからない。彼女が、どこまで満足していたのかもね。でも、彼女はもう、自分が長くないことを知って、こんなものを君に残してたんだ」 
 涙声で話しながら、彼が取り出したのは、二冊の本だった。どちらも、ページの間が少しだけ膨らんで、表紙をわずかに持ち上げている。どうしてそうなっているのかは、本を開いた瞬間にわかった。
 複数のページに、彼女の字を載せた付箋が貼られていて、それらがかすかな隙間を作っていたのだ。
「経理と財務の本。あいつが、一番わかりやすいものを探して、選んだんだよ。付箋は全部、あいつの補足なんだ。自分がいなくなったら、君にこれを渡してくれって・・・・・・それも、あいつの遺言だったんだ」
 目頭が熱くなるのを感じて、僕は涙で濡れないように、本を胸に抱きかかえた。
「ありがとう、ございます」
 それ以外の言葉が、出てこなかった。彼に、そして彼女に。
 本当に、ありがとうございます。
「なあ、頑張れよ。頼むよ、頼むから頑張って、あいつの足跡を残してやってくれ。仕事のできる有能な男になって、そうして働いた給料で、幸せな人生をつかんで欲しいんだ・・・・・・あいつと、俺の分まで」
 涙でぐしゃぐしゃになった頬を拭おうともしないまま、彼が絞り出す言葉が、僕の中に刻まれていく。
「残し、ますよ」
 僕の声も、掠れていた。
「彼女が教えてくれたこと・・・・・・全部、全部覚えます。何だってする。約束します」
 ありがとう。言葉になってはいなかったけれど、彼がそう言ったことが、僕にはわかった。
 何も残せなかったと泣いた、あの人。それなら、 俺が絶対に、その足跡になってやる。
 ノートに綴ってきた彼女の言葉、そして、腕の中の本。そこに挟まれたたくさんの付箋、書かれた彼女の文字。姿は見えなくなってしまったけれど、僕が足跡になるために必要なものを、彼女はちゃんと、残していったのだ。
 そして、僕達はスターバックスのテーブルで、人目も憚らずに号泣した。ひまわりが消えてた今、どんなにあの明るい光を求めても、もう戻らないことを知っていて・・・・・・泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。

◇◆◇

「パーパ」
 そう呼ぶ声が、僕をまた、過去から現在に引き戻した。
 ひまわりの中から戻ってきた息子が、僕の右脚に両手を当てて、嬉しそうに笑っている。
「ひまわりの中を歩くの、楽しかったか?」
 尋ねながら、僕は息子を抱き上げた。毎日繰り返す、習慣になった動作。小さな身体は、いつもいつでも、たまらないくらいに温かい。
「うん、たのしかったよ!」
「そっか、ママと一緒で良かったな」
「ね、パパ、ソフトクリームたべようよ。ママが、かってくれるって」
 駐車場のとこに売店あったでしょ、そこで買いたいんだって。妻がすかさず、息子の言葉を補足する。
「いいね、パパも食べるぞ。ソフトクリームはバニラかな」
「パパは昔から、バニラが好きだもんね。でも、チョコもあるって、売店に書いてあったと思うけど」
「ぼくは、バニラでいいよ!」
 はしゃいで笑う息子を、歩いても落ちないように、僕はぎゅっと抱き直す。息子も、まるで心得ているかのように、僕の首にしがみついてきた。
「じゃ、行くか」
 小さく温かな幸せを抱いたまま、僕は踵を返し、ひまわり畑に背を向ける。そして、少しだけゆっくりと、現在という時間を歩き出した。

〔 了〕

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