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連載小説|パラダイス〔Part2〕

*Part1~13でひとつの物語になります*
Part1はこちら

 予想はしていたけれど、夜の8時にあずさが来てから、肝心な話が始まるまで、1時間が必要だった。
「あずちゃん、オレこの間、ホームラン打ったんだよ」
「あずちゃん、わたしの新しいクラスね、かっこいい男の子いるの」
 僕の、9歳の息子と7歳の娘が、久しぶりに会ったあずさをつかまえて、離さないからだ。京子が用意してくれたケーキを食べながら、子供たちは叔母の両脇に陣取り、奪い合うように話を乱発している。真ん中のあずさも、いつも通りの、はじけるような笑顔を浮かべて。
「あんたたち、もう9時なんだから、歯磨きして寝なさい!」
 しかし、京子の一喝で、子供たちが離れた途端、その笑顔はしぼんで消えた。
 そういえば、あずさとこうして、真正面から向かい合うなんて、いつ以来だろう。ダイニングテーブル越しの妹は、しばらく見ないうちに、鎖骨の下まで髪が伸びていた。
「悪かったな、子供たちが騒いで」
「大丈夫、あたしもふたりに会えて嬉しいもん。なんか、久しぶりに笑った」
 キッチンでコーヒーを淹れなおした京子が、三人分のマグカップをテーブルに運び、僕の隣に座る。
「ごめんね、こんな夜に騒がせちゃって」
 ラベンダー色のマグカップを受け取りながら、あずさが京子に小さく謝った。
「いいのいいの、あずさちゃんなら真夜中だって大歓迎だから。でも、何があったの?」
「うん……隆さんね」
 その名前を出したところで、あずさはまるで、言葉を探すかのように口ごもった。

 両親には決して言えないけれど、僕は何度か、隆さんと一緒に食事をしたことがある。あずさと京子の仲が良く、そのつながりで、彼と僕も巻き込まれたのだ。
 隆さんは確かに、顔立ちは年齢相応に見えるものの、すっと姿勢がよく、髪の量も多いので、さほど老けた印象がない。そして、とてもやさしい話し方をする人だった。
「3か月前に、わかったことなんだけど」
 僕の回想を止めるように、あずさが話し始める。
「病気、なの」
「病気? あずさが?」
「ううん、隆さん。膵臓癌で……気づいた時にはもう、あちこち転移してて、どうしようもなかった」
 隆さんが。膵臓癌。
 今、そう言ったんだよな?
 京子がそっと腕を伸ばして、あずさの右手の甲に触れた。その仕草が、聞き間違いではないと、僕に教える。
「もういいって、隆さん言ったの。小さな可能性に賭けて、強い薬を使ってみることもできたけど、そんなことしなくていいって。ただ、残された時間を静かに過ごせるように、痛みを取る治療だけ、してほしいって」
 一気に言い切り、あずさはひとつため息をつくと、涙をごまかすように、マグカップを口に運んだ。
 何か言ってやりたいけれど、どんな言葉が妹を癒せるのか、僕にはまったくわからない。それとも、不用意な言葉で傷つけるくらいなら、何も言わない方がいいのだろうか。
「隆さんは検査の間、入院してたんだけど、もう長くないってことがわかって、いったん退院したのね」
 声が震えたものの、あずさは涙を抑え込み、静かに話を続けた。
「それからすぐ、うちの会計事務所の所長職を、ずっと勤めてる会計士に譲って、自分は相談役に退いたの。介護保険の手続きとか、保険会社への連絡なんかも、自分でして」
「あずさちゃん、今でも、隆さんの会計事務所で働いてるんだよね」
 口を挟んだ京子のほうが、涙声だ。
「うん、あたしは今も毎日、出勤してるよ。でも、隆さんは、1週間で新所長に引き継ぎをしてからは、事務所には来なくなったの。退任のあいさつ回りも、もう体力的に無理だったから、新所長に任せて」
 営業職の僕には、その言葉が突き刺さる。隆さんの病気は、わかった時点でもう、顧客にあいさつ回りもできないほど、酷かったのか。
「そこから、隆さんはどんどん痩せて、どんどん動けなくなって行ったの。痛みが酷くなると、痛み止めが強いのに変わって、それが効かなくなると、もっと強いのになって」
「あずさ」
「そしてね、お兄ちゃん。1か月前、隆さんは突然、置き手紙を残して、いなくなっちゃったんだ」
 妹は少しだけ早口で言い、もう一度マグカップを口に運ぶと、涙をひとしずく、その中に落とした。

 俺、高校を卒業するまで、秋田で育ったんですよ。
 そのとき、何年も前に聞いた声が、ふっと僕の頭をよぎった。
 父は仕事の都合で、ずっと千葉に住んでましたけど、母と兄と俺は秋田で。でも、兄も俺も、大学は関東を選んだんで、俺の進学をきっかけに、実家を引き払って、父のところに集まったんです。
 何の機会だったか、直接会ったときに、隆さんの口から聞いた生い立ちだ。
「なあ、あずさ。おまえ、秋田に行きたいって言ってたな」
 昨夜の唐突な電話と、その記憶が、僕の中でつながる。
「……うん。言った」
「隆さん、今、秋田にいるのか。生まれ故郷に」
 京子が小さく、あっ、と声をあげた。
「あんな体で、どうやって秋田まで行ったのか、最初は信じられなかったんだけど」
 そして、あずさがまた話し始める。
「隆さんの置き手紙には、これ以上あたしに、弱っていく姿を見せたくないから、静かに過ごせる病院に行くって書いてあったの。だから最初は、どこの病院に行ったのか、見当もつかなくて」
「それだけの手紙の内容で、よく見つけたな」
「隆さんね、病気がわかったばかりの頃、秋田に帰りたいって言ってたの。死ぬ前に一度、行きたいなあって」
 こらえきれなくなったのだろう、あずさはぽろぽろと涙をこぼし、隠そうともしない。京子が小さなタオルを取ってきて、そっと手渡した。
「隆さんは今、にかほっていう場所のホスピスにいるの。彼の故郷。一昨日、やっと見つけた」
「どうやってわかったんだ?」
「にかほ近辺の、大きな病院とホスピスに、片っ端から電話したの。入院してるか訊いても、個人情報って教えてもらえないから、そちらに入院中の、深川隆の家族ですがって嘘ついて」
 なるほど。それなら、あたりを引いた時、病院側は隠さないだろう。
「ねえ、健司、あずさちゃんを連れて行ってあげて」
 自分も、目を真っ赤にした京子が、訴えるように僕に言う。
「隆さんと話せるうちに、駄目だよ、会わなきゃ。それに、あずさちゃん独りで行かせるのも、心配だし」
「お兄ちゃん、お願い」
 ふたりの声が、重なった。
 もちろん、ここまで話を聞けば、僕の心も決まっている。
「土日で、いいんだよな」
「……お兄ちゃん」
「来週末、行けるように調整してみるよ」
 ありがとう。あずさは、そう声を絞り出すと、突然テーブルに突っ伏した。そして、肩を震わせて、静かに泣き続ける。
 僕は、妹にかける言葉を、何ひとつ見つけることができなかった。

〔Part3へ続く〕

見出し画像:tenさんnew dawn


 
 

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