大学4年間したことのふりかえり。教育と教員免許。バイトや習い事。
大学4年間。卒業してみれば、あっという間に過ぎた。
入学した頃は、4年間って長。
思った。けどね。それは幻。
あっという間。
それもそのはず。コロナがあったから。
教員を目指すために入った大学。
目的があって大学に入ったから、
やりたい事が明確だった。
ポテンシャル高く、たぶん真面目に過ごした4年間をふりかえる。
大学1年生のはなし
入学した。
友達の作り方が分からなくて、焦った。
とにかく緊張して、周りがキラキラして、自分は何も無いと思った。
でも。自分は教員になりたい。
この夢があるから、今がある。そう信じて通った。
①子供と触れ合うボランティアサークルに所属した。
理由は単純。
先生になる…以前に、子供を知りたかったから。
もっと深く言うと、健常の子どもが苦手だったので、それを克服&慣れたいと思ったから。
教員を目指すのに、なんだその理由は。
寝言は寝ていえ。
私がなりたいのは、特別支援学校の教員。
障害のある子供たちと、沢山関わっていきたいと考えていた。
しかし、特別支援学校教員になるためには、基礎免許が必要だ。
すなわち、普通学校の教育実習にいずれ行かなくてはならないのだ。
一方、私は健常の子どもは苦手だった。
ストレートだし、陰でイジメはするし。
いや、自分の小中の記憶が悪かった。
バカにされ、嫌なことを言われ、傷ついた経験から、健常者は苦手。
そう決めつけていた。
苦手だけど、教育実習でいずれは関わらないといけない。
そのための修行!!
なんてね。さいあく。
そこで出会った人間が素晴らしかった。
同期も個性的。先輩も明るくてパワフル。
前向きでキラキラでみんな子供思い。
陰キャな私は少々お門違いかなとか思ってたけど、それでも1年続けた。
その理由。
子供が大好きな男の先輩に出会ったから。
小学校の先生になるんだ!!!
素直な気持ちを大きな声で言っていた人。
責任感があってしっかりしていて、いつも真面目で。
でも。
こどもと関わるときは、全力で向き合う。
全力で叱る。
全力で遊ぶ。子供よりも沢山走り回って。
私はその姿に感化された。
子供と同じ目線に立つこと、全力で向き合う事が自分にはできなかった。
私はその先輩の背中を見て、自分に足りないものを補っていった。
そして。初めは、距離感があって、どう関われば良いのか一切わからなかった子供。
関わっていくうちに、どんどん生態を掴んでいった。
子供の気持ちを考えるようになった。
辛いこともあって、たくさん悩んだ。
自分の立ち位置、責任。
でも、子供の関わり方を沢山まなんだ。
②マンドリン サークルに入った。
ずっと音楽をしていた。
だから大学でも何か楽器をしたかった。
そこで素敵な音色に惹かれたのがマンドリン だった。
マンドリン は難しかった。
トレモロがなかなかうまくいかない。
定着しない。
でも。
仲間たちが温かくて、演奏が楽しくて、先輩が優しくて。
女子大サークルだから、みんなおっとりしていて優しかった。
ここで出会った同期と先輩は、一生ものの宝物だ。
これからもずっと続くと信じてる。
③地域の手話サークルに通った
幼稚園の頃にした手話歌が楽しかった記憶があった。
だから、手話を始めたいと思った。
1年間、手話を学んだ。
初めて耳の聞こえない人(先生)と出会い、関わった。
手話の勉強は途中頓挫しそうになったけれども、一応最後まで通った。
たくさん出会いがあった。
お別れの時に、耳の聞こえない先生が、手話で私の将来を応援してる、と伝えてくれた。
多分、そんな内容だったと思う。
全ての手話を解読できる能力は私になかったけど、先生の気持ちが伝わった。
④自動車免許と小型二輪バイクの免許を取得した
大学の帰りに寄れる、帰路の途中にある教習所で細々と通った。
本免試験落ちるわ、ノー勉で挑んだら筆記試験落ちるわ、なかなかアホなことをしでかした。
車は時間があるうちに取ろうと決めたけど、結局はペーパーだし取る必要があったのか。
でも、バイクは取って良かったなぁ。
バイクを運転するのが、凄く好きになったから。
大学2年生の話
①パン屋のバイトがうまくいかなかった。
人間関係で躓いた。
理由は至極明確。
仕事が覚えられず、できなかった。
私の人間関係構築が下手だった。
そして居心地が悪くなった。
だから辞めた。スッキリした。
そこで考えた。何がダメだったのか。
どうしたら、年上の大人たちと、先輩と仲良くできるのだろう。
初めて、自分の振る舞い方について考えるようになった。
②介護等体験に行った。
特別支援学校と老人ホームで実習した。
念願の特別支援学校は2日だけ。
日数が少ないから得たものは少ないけど、どこに障害があるのか分からないような高校生と初めて関わって、障害者観が変わった。
障害って何だろう。
関わっても障害が分からないような彼らがどうして特別支援学校に通うのか。
キャリア形成するための教育。
新たな世界が広がった。
③副免を取り始めた。
大学で、中高の教員免許も小学校免許の取得と併用して取るようになった。
自分は国語の免許を取得するために、他学部の授業を受けに行った。
自分は現代文が大の得意だった。
高校では学年3位以内に入っていた。
一方、古文は壊滅的。
他学部の授業のほとんどは、古文の授業ばかり。
苦手意識が強い授業を沢山取らなくてはいけなくなってしまった。
勉強ができないというコンプレックスと自信のなさから、メンタルがブレブレになった。
④移動支援従業者資格を取得した。
「特別支援教育を学ぶ前に、障害を知りたい。」
強く思った。
だから、自分は特別支援学校教員になりたい。と周りに沢山言って回った。
功が奏して、手を差し伸べてくれる人が現れた。
自分の住む都道府県が開催する、移動支援従業者養成研修の案内だった。
移動支援とは、いわばガイドヘルパー のこと。
通院の解除や、お出かけの付き添いなどの福祉関係の仕事だ。
自分はコレだ!と食いついて研修を受けに行った。
車椅子の方の目線を学び、自分が実際に車椅子に乗って外を出かけた。
私たちが何も思わず通っている道には、たくさん障害があって。
道が狭かったり、偏っていたり、歩道が狭かったり。
そんな場所が沢山あるのだ。
これは、自分が車椅子に乗って初めて気づいた視点だった。
この資格は、履歴書に書ける上にそれ以上の価値を感じた。
⑤生活介護のバイトを始める
知り合いに、成人した障害者の生活介護をする会社の社長さんがいて、
熱意を買われてスカウトされ働き始めた。
福祉も何も知らない状態からスタート。
夜勤の仕事。
お風呂介助や食事介助。就寝前の歯磨きや服の用意。記録。
初めての連続で、何度も失敗した。
そこで出会ったパートの人で元ヤンのおばさんがいた。
キレたらヒステリックに怒る人で超怖い。
でも、理不尽に切れてる訳じゃ無いのは分かったから、素直に受け入れるようにはしていた。
しかし、怒られるわ怒られるわ。
でも。その姿には愛情があった。
「働く」ことはチームなんだ。
初めてそれを肌で感じた。
この気づきは、私が精神的に大人になった大きなステップだった。
福祉で働く人たちのさまざまなバックボーンや人柄。
刺青を入れた人と仕事をしたり、元ヤンやヤンキーと仕事のタッグを組んだりしたけど、
自分はパン屋の頃と違って、上手く立ち回れるようになっていた。
ここのバイトで得た力は大きい。
もちろん、食事介助やオムツの変え方など技術的な面も学ぶ事ができた。
1年半続ける事ができた。
⑥マンドリン サークルと、子供と遊ぶサークルを辞めた。
自分を追い詰め過ぎたのかな。
メンタルが不安定だった。
とにかくしんどかった。
勉学の面でもストレスが大きく、人間関係もうまくいかなかった。
もちろん、双方のサークルで出会った人たちは素敵な人もいたし、得られた経験も豊富だった。
でも自分は限界だった。
マンドリン が大好きになってきた矢先だった。
でも人間関係がうまくいかなくて、先輩と喧嘩したりしてしまった。
折角辞めるしと思って、サークルに好きな人がいたから、告白してアッサリ振られた笑
人生初の自分からの告白は失敗した。
⑦成人式があった
私の中高生活を狂わした、かつて好きだった男の人と成人式で再会した。
まだ未練はあったかもしれないけど、その成長した好きだった男の人は、もう自分の知らない人だった。
なんだか、スッと気持ちが軽くなった。
もう、好きにはならないな。と悟った。
⑧料理教室に通った
将来のことを考えた。
教員は働く時間が長い。家に帰ったら家事をこなす必要がある。
でも家事に時間をかけられない。
でも自分は壊滅的に料理が苦手。
いや、料理が嫌い。
自立して生きていくためには、料理は欠かせない。
美味しい料理を先ずは作れるようにしたい!そう思いついて入会した。
コロナで一度は頓挫するものの、料理が好きになるきっかけになった。
大学3年生のはなし
大学生活も折り返しか〜と思ったのは覚えている。
残りの生活で、自分に何ができるか、教育実習や現場に出る上で何が必要かをよく考えて行動するようになった。
①コロナが流行ってオンライン授業になった
研究室配属も終わり、さあゼミが始まる!!
そんな矢先に全ての授業がオンラインになった。
イレギュラーな授業に困惑し、目は痛くて肩は凝る。
対応するのに時間がかかった。
家から出ることは少なくなった。
サークルも全てやめたので、時間はあったけど。
小学校免許と中高免許を取るための教職授業が沢山残っていたので、
時間を調整しながら、一気に受講する事ができた。
オンライン授業は、成績が良く上がったので結果的に良かったと思う。
②放課後等デイサービスのバイトを始めた
知り合いの紹介で、放課後デイのバイトを始めた。
生活介護で大人の障害者と関わり、福祉の基礎を理解したので、
次は子供と関わろうと思った。
実際、生活介護の経験は生きた。
それに、社員さんやパートさんが、とても優しかった。
温かい人間関係で働く事が、こんなに幸せな事なんだ!と知る事ができた。
しかも、子供が途轍もなくウルトラ可愛すぎて毎日元気を貰った。
だからバイトがちょースキになった。
③SNSで特支の情報や講義、ネットワークを構築した
コロナによるオンライン配信の発展により、沢山のオンライン講義が生まれた。
自分は、自分と同じ、障害者支援に興味のある人たちの集いのサブスクに所属したり、交流を持ったりした。
特別支援教育に関するオンライン講義を沢山受けた。
ここで得た知識は後に大きな財産となる。
④大学院試験に向けて勉強を始めた
周りの人間の刺激により、大学院試験のポテンシャルが高まった。
情報を収集し、院試に向けて勉強を始めた。
研究室訪問を行い、(コロナでオンライン)、大学院で何をしたいか、探究したいかを考えるようになった。
専門用語の勉強のために、本を読んだり、英語を勉強したりした。
⑤懸賞論文で秀賞をもらった
大学内で開催された、懸賞論文に応募した。
大まかに伝えると、障害者差別や人権について。
主な内容は、相模原障害者殺傷事件に関してだ。
当時は出生前診断(NIPT等)に強い関心を持っていたため、書き殴るように論文という名の作文を書いた。
所属するゼミの教授に添削してもらい、そこで自分の考えをまとめ、文章の書き方を大まかに学ぶ事ができた。
この経験は、自分の自信にもつながったし、卒論を書く上で大きなアドバンテージになったと自覚している。
輝かしい栄光だ。
⑥地域の要約筆記サークルに通った
手話を学んだことにより、聴覚障害に関心を持つようになった。
そこで、聴覚障害者のなかで手話を使用する人はマイノリティである事を初めて知ったのだ。
殆どは手話を使用しない、筆記でコミュニケーションを取る場合が多いと知り、
要約筆記を始めることにした。
例えば、講演会で話す人の言葉を纏めながら、
聴覚障害者に向けて分かりやすく文字にして伝える作業のことだが、
重要なところを聞き分けて、文字に写す。
ここで脳がパンクしそう…になる!!
マジで!!
ここまではいい。
でもパンクしそうな上に、話し手はこちらの気持ちをつゆ知らず、流暢に話を進めていく。
一瞬の油断は許されない。
情報保障のために、書き手は集中して脳と手を動かさないといけないのだ。
今ではパソコンという手段もあるが、
私はあえてアナログ手書きで始めた。
めっちゃキツかったから、多分パソコンの方が慣れてて楽だと思うわ。
誤字が少ないしね…
3ヶ月講座に通い、要約筆記にようやく慣れ始めたところで講座は終了してしまった。
大学4年生の話
最終学年。気持ちを引き締め、全力で突き進んだ。
①小学校実習が始まった
はじめての教育実習。
…やば緊張したー!!
担当学年は1年生。
それはつまり、どういうことか。
…超かわいい‼️‼️
以前まで、健常児が苦手だった自分。
子供と関わるサークルで多少改善されたとて、
得意とは言い切れなかった。
しかし…!!
ほんとうに素直でピュアな小1に心を奪われた!
あまりに楽しい実習期間。
毎日、運動場を走り回り、息切れしながら授業をした。
疲れてて、子供になんて言ってんの?て言われたこともあった。
指示がうまく通らない事が多々あって悩んだけど、
めちゃくちゃ忙しい担当教員は、わずかな時間を割いて精一杯向き合ってくれた。
研究授業の模擬授業を大失敗して、子供を泣かせたこともあったけど(エ…)
失敗して学ぶ事が沢山あった。
おかしいな。
私、普通小学校の先生に少しなりたい気持ちが芽生えてきたゾ……
②前の彼氏と別れて新たな彼氏ができた
こんなことがあっていいのか。
小学校実習まっただ中に新たな彼氏ができてしまった。
彼氏が出来て浮かれた気持ちでウホウホして実習に挑む……ではなく、
子供と会える喜びのウホウホが勝ってしまい、彼氏ウホウホは自然に押さえつけられていた。
ああ、新しい彼氏かわいそう。
前の彼氏とは、相性不釣り合いで大失敗事件だったけど、新たな彼氏はクセが強い。それはいかがなものか。
でも、障害児支援に通じる人だったから、
安心感があったのだ。
新たな彼氏には吃音を持っていたため、実習で吃音のある児童生徒と関わるときの配慮事項を相談したりしていた。
私の想像で決めつけたことを子供に押し付けたく無い。
子供の意思を尊重しつつ、どんな子供でも生きやすい世界を構築したい。
そんな気持ち一心だった。
③8月、大学院試験を受けた。
コロナでオンライン試験になり、筆記試験は免除されるというラッキーボーナスがあった。
従って、実習バタバタ期間で院試勉強の時間が割けなかったので、とてもありがたかった。
院試は緊張したけど、クリアする事ができた。
④中学校実習に行った
ふえええ。
これを思い出すと、苦しい。
やっぱり、思春期の生徒を相手にするというのは、一筋縄でいかない。
素直さは…正直あまりない。
陰湿なイジメはあるし、今時のSNSトラブルの連続。
これを常に対処しなければならないのに、日々の授業の準備も継続するなんて無理‼️
て思った。
そんなこともあってか、生徒と仲良くなれなかったな…
これは後悔してる。
もう少し、仲良くなれるチャンスはあったんじゃないかな。
⑤卒業論文を執筆した。
実験結果をまとめ、報告して考察するスタイルの特別支援教育関連の卒論を書いた。
10月に中学校実習があり、それが終わってから卒論執筆スタートという、
なかなかの遅さ。もっと焦るべきだった。
まあまあ。でも。
院試のおかげで、卒論の先行研究はあらかた入手、何度も読んでいたため、
論文の書き方もなんとなく頭に入ってあった。
実験も細々と続けていたため、何とかなった。
と言っても、論文は完璧を求めすぎるとキリがない。
結局のところ、卒論提出期限日の前日まで執筆していたので、
すなわち余裕がなかったのだ…!!
まあ…何とかなった。かな。
⑥言の葉大賞で入賞する。
言の葉大賞HP
第12回。テーマ「道」。
僅か800字で思いの丈を綴り応募。
しかも執筆して応募したのが、院試後と中学校実習始まる前の、ちょうどメンタル不安定ギリギリ期間だ。
自分としては、よくやったな。と思う。
なかなかイライラしながら書いたけど、渾身の文章が書けた自信はあった。
今度、大学名と名前がHP上で表示される。
とても名誉なことだ。
⑦大学の公式HPに専攻の代表者としてインタビュー記事が掲載される
なぜ私が代表者に選ばれたのか。
理由はわからない。
私は成績は中の中だったので、情熱が認められたのかな…とか思ってるけど真相は謎。
しかし、お世話になった大学に、最後の最後に爪痕を残すことができる…!
とわかったときは心底嬉しかった。
これは、本当に名誉な事だった。
何より専攻の先生の推薦だそうで、先生は私を見てくれていたんだ…と思うと頑張って良かったなぁと感じた。
うん。よかった。
⑧地域の点字教室に通う
実習でバタバタ。
卒論でバタバタ。
なぜそんな大変な時期に点字教室なるものに半年間通おうとしたのか。
ずっと興味があった点字を学ぶ機会は、大学4年生を逃したら、当分訪れないだろうと予測したからだ。
まあ、「将来、点字を使うか。」
と問われたら…正直わからない。
でも、障害は重複しているケースが多い。
例えば、単なる肢体不自由だけでなく、視覚障害や聴覚障害が重複しているケースもある。
それならば、視覚障害や聴覚障害を学ぶ必要性は大いにあるのではないか…と以前から考えていた。
点字はとてもシステマチックだ。
6つの点で言葉を紡いでいく。
たかが6つの点で、バラエティー豊かな文章を打つ事ができるのだ。
視覚障害者の生活に欠かせない点字。
晴眼者(目が見える人)は、点字を解読する必要性がないため、意識をしていない人も多いだろう。
しかし、「特別支援教育に携わる人間として、点字の存在をスルーしていて良いのだろうか。」
そんな疑問が湧いたのだ。
手話も点字も、一人前にできないけれど、それを学んだことにより得られた知識、理解は、今後絶対に役に立つと信じている。
⑨卒業
紆余曲折ありながらも、小中高司書免許を取得する事ができた。
本当に頑張ったし、良かった。
4年間を振り返った。
あっという間…と思っていても、
文字にしたらとても多い。
これは私の自己満足だ。
スッキリした。これでいいんだ。
私の中では、目標に向かって突き進む事ができたのではないかと思う。
勿論、まだまだ足りないところも沢山ある。
そんなことばっかり。
でもね。
後悔はしてない。
自分、大学生活、よく頑張ったねって
ナデナデしてあげるんだ。
卒業、おめでとう。
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