すててこを穿く早さ 中原道夫句集『九竅』を読む(7)
「銀化」主宰・中原道夫の最新句集『九竅』(2023年9月発行)を毎月一句ずつ、24回に亘って鑑賞していきます。今回はその第7回です。
人口に膾炙する虚子の代表句〈流れ行く大根の葉の早さかな〉を想起させるが、その句意・内容は両者で大きく異なる。虚子句では、寒い冬の朝(※朝であることを示す直接的な情報はどこにも書かれていないが、この句は早朝をイメージさせる)に、清冽な小川を瞬時に過ぎゆく対象物——ここでは大根の葉——の、ある種の緊張感といったものが感じられる。
一方、道夫句であるが、季節は真逆の夏。清流をサッと流れ去るスピード感の虚子句に対し、こちらは何とも無様に「うろたへて」いるという為体。こうして両句を比較してみると、なんとも見事なまでの落差が見えてくる。
両者の間にはまた、共通点も存在する。前述の「ある種の緊張感」がそれだ。虚子句では、冬の早朝・清冽な急流・葉の流れ去るスピード感から来る緊張感。
一方の道夫句では、暑い夏の休日の朝、それも早朝ではなく正午に近い午前中。半裸姿で心身ともに弛緩していたところへ、不意に宅配業者の来訪を告げるインタホンのチャイムが鳴り渡ったときの、ささやかな恐怖と言ってもいいあの緊張感である。
両者に共通する「緊張感」はいったいどこから来ているかといえば、それは紛れもなく「早さかな」によって齎されたものだ。この味も素っ気もない五音が、まさに両句を秀句たらしめていると言える。
さらに道夫句では、上五「うろたへて」の臨場感によって緊張の度合いは倍増している。主人公の緊張が読み手にひしと伝わってくる。だが、はて。宅配業者の来訪がそこまで狼狽えるほどのことなのだろうか。
ん? 待て待て。もしかすると、宅配業者ではない他の誰かが帰ってきたのではあるまいか。この「うろたへてすててこを穿く」男は、案外にこの家の住人ではないのではないか——そのように読み解いてみると、道夫句を徹頭徹尾貫いている緊張感の正体も自ずと垣間見えてこよう。
読み手がどう観賞しようとも自由なのが俳句だ。作者はそれを逆手に取り、読み手へ謎を投げかけているのだ。俳句はすべからく読者に対する挑戦でなければならない。(了)