
退屈でいいか 中原道夫句集『九竅』を読む(5)
「銀化」主宰・中原道夫の最新句集『九竅』(2023年9月発行)を毎月一句ずつ、24回に亘って鑑賞していきます。今回はその第5回です。
退屈でいいかそれとも蜷の径行くか
中原 道夫
いろいろな意味で「挑戦」の句だと思った。俳句の定石ともいえる映像(つまりは情報)というものが無いに等しい。主人公はいったいどこにいて、いつ、誰と、何をしているのか、といったことが皆目わからない。唯一の手掛かりは季語だけだ。では「蜷の径(道)」とは如何なる季語だろうか。
「蜷は泥に筋をつけてゆっくりと這うが、これを蜷の道という。〈本意〉蜷の道は人生の歩みを暗示することが多く、しみじみとうたわれることが多い。」(平井照敏編/河出文庫版『新歳時記』より抜粋)
掲句もまた、なにがしかの暗示として「蜷の径」が詠まれているとみていい。『新歳時記』の言うように、それは人生の歩みかもしれない。具体的な景を提示せず、すべてを季語に託し、読み手の鑑賞に委ねる——このようなタイプの句は、読者一人ひとりがそれぞれの人生観・価値観に照らし、各々好きなように解釈すればよいということになる。それはすなわち、読み手の想像力・鑑賞力に対する挑戦にほかならない。掲句を読んで「退屈は嫌だから、蜷の道を行こう」と思うもよし。また反対に「退屈でいい。蜷の道なんぞを行くくらいなら、退屈のほうがいい」と考えるも自由だ。
銀化の同人である私にはまた、私なりの読み方がある。掲句はすべての銀化会員へ向けて主宰が突き付けた挑戦状ではないかと思っている。「あなたたちはそれでいいのか。退屈なままでよいのか。もっと、もっと、もっと挑戦せよ」という主宰の、太く、明快な声が聞こえてくる。
作者は、それまで勤めていた大手企業を働き盛りの四十代ですっぱりと辞め、背水の陣を敷いて俳句結社の主宰という「蜷の道」へと這入っていった人だ。退屈でいいか、それとも——。掲句は銀化会員に対する鼓舞であると同時に、作者中原道夫が自らを鼓舞し、何よりも自身への挑戦状として詠んだ一句ではないだろうか。(了)