見出し画像

太古のにほひ 中原道夫句集『九竅』を読む(14)

「銀化」主宰・中原道夫の最新句集『九竅』(2023年9月発行)を毎月一句ずつ、24回に亘って鑑賞していきます。今回はその第14回です。

太古よりのにほひあるらむ日の永し
            中原道夫

中原道夫句集『九竅』所収

 前回〈川底に億年の泥去年今年 道夫〉という句を採り上げたが、今回の掲句もその同一線上にあると言える。いずれも普遍性(不変性)を主題としたスケールの大きな句だ。
 前回の句、作者の目は「川底」という特定の場所にフォーカスされていた。しかし掲句では、その目は永き日というものを静かに見つめ、春の一日に覚えた自然の理と人間の営みに深く感じ入っている、といった感がある。というより、むしろ日永という季題そのものに作者の目が——もっと言えば、作者自身が同化している印象さえ受ける。そして、この句が「川底」の句と異なっている最大のポイントは、フォーカスの対象がもはや視覚ではなく、嗅覚となっている点だ。

 においは脳の深部(大脳古皮質)にある嗅脳と呼ばれる領域で情動や記憶と結び付いて知覚される。においに好き嫌いや快不快があったり、好物のにおいで唾液が出たりするのはそのためだ。そして、深部にある機能ほど古い時代に獲得したものであることがわかっている。ゆえに嗅脳が深部に存在することは、情動や記憶とともに動物が最も古くから具えている感覚が嗅覚だということを示している。
 進化を極めたヒトでは嗅脳は退化し、大脳に占める割合は小さい。動物だった頃よりも鼻が利かなくなっているという訳だ。だが、ヒトの脳から嗅脳が消えた訳ではない。何かの「にほひ」がいつ何時、太古の人類の記憶を呼び覚まさぬとも限らない。

 初春のある日、作者は太古より変わらぬ日永に精神を同化させ、そこにやはり太古から変わることのないにおいを感じ取った。あるいは、それは譬喩かもしれない。日永を介して太古と交信した作者が何かを感じ取り、それを嗅覚情報であるにおいに譬えたのかもしれない。とすれば、まさに当を得た譬喩だと言えまいか。においは太古の記憶を呼び覚ます鍵なのだから。
 道夫俳句はその時空的スケールの大きさが紛れもない魅力の一つ。中原道夫の脳に占める嗅脳~大脳古皮質の割合は、ヒトの平均よりもかなり大きいのではないだろうか。(了)

いいなと思ったら応援しよう!