空區地車の力学その78.無手勝流にもほどがあるが「神功皇后生存説」を私は支持する
私が所属する空區地車は、神戸市東灘区にある「本住吉神社」の例大祭(神事)で巡行しています。
「本住吉神社」の祀神は、住吉三神といわれる底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)と、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后・じんぐうこうごう)です。
このブログの『その37.平仄に合わなくても「神功皇后生存説」を信じる!』でも書きましたが、今回も神功皇后について。
そもそも現在の歴史家の間では、初代の神武天皇から第16代天皇の仁徳天皇あたりまで実在しないという向きもあります。仁徳天皇陵は堺市にあるにもかかわらず、もちろん初代・神武天皇陵も存在しますが。
そうなると第14代仲哀天皇の妻である神功皇后も架空の人となります(神功皇后陵も奈良市にある)。
ちなみに神功皇后は100歳で崩御。その子の第15代・応神天皇は111歳、第16代・仁徳天皇は143歳の長寿である。
神功皇后は、実の子の皇子が第15代・応神天皇即位までの約70年間「摂政(せっしょう、君主に代わって政務を執り行なう)」を務め、三韓遠征、内乱鎮定などを行ったことで知られています。
神功皇后は、三韓遠征の帰途に兵庫県西宮沖で船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀りました。その地が「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」であり、「本住吉神社」であると本住吉神社・社伝にあります。
諸説ありますが、江戸時代の国学者で「古事記伝」を書いた本居宣長も「本住吉神社」の主張を支持しています。と、ここまでがこのブログのその37に記しています。
日本書記の神功皇后摂政元年年二
では大津渟中倉之長峡はどこにあるのか?
その地こそが神戸市東灘区にある「本住吉神社」説ですが、諸説の中で歴史学者から最も支持されているのが、大和朝廷(ヤマト王権)への入り口にあたる大和川の河口(大阪市住之江区)に位置する「住吉大社」説です。
もちろん住吉大社の祀神も「本住吉神社」と同じく住吉三神と神功皇后です。
「本住吉神社」では平成20年(2008年)に1800年祭が行なわれたので創建は208年。一方「住吉大社」では平成23年(2011年)に1800年祭が行なわれたことから創建は211年で、本住吉神社の方が3年早く創建されています。
神功皇后が三韓遠征の帰路、兵庫県西宮市の武庫の水門付近で船が進まなくなり、まず神戸市東灘区で停泊し住吉三神を祀ったことで無事風雨が収まり、その後、大和朝廷の入り口に当たる大和川河口の大阪市住吉区に「住吉大社」を遷座したと考えると、3年間という時間のズレは納得できます。
しかし、古事記、日本書記などの記載によると、神功皇后が住吉三神を祀ったのは神功皇后11年とあり西暦201年なので、本住吉神社は社伝から7年後の創建となり、住吉大社は社伝から10年後の創建となり、いずれも微妙にズレています。
しかし、ここでさらにウチこそが「大津渟中倉之長峡」だと主張する神社がいくつかありますが、支持されているものは神戸側に3社あります。しかも創建は、201年ドンピシャなのです。
まず阪神タイガースの優勝祈願で名を馳せる「廣田神社」(西宮市)。
主祭神は天照大神荒玉。脇殿神は住吉大神、八幡大神(はちまんだいじん)、武御名大神(たけみなかたのかみ)、高皇産御神(たかみむすひのみこと)です。
ちなみに脇殿神の「住吉大神」とは住吉三神と神功皇后のこと。「八幡大神」とは応神天皇(神功皇后の子で第15代天皇)。「武御名大神」は日本神話の神・大国主命の子供ロタノクニ=摂津国武庫郡広田神社)に居るべきだ」と天照大神のお告げで神功皇后が創建したとなっています。ただし、応神天皇(神功皇后の子で第15代天皇)を祀神にしていることから創建が201年というのがひっかかる点です。
2つ目は、2007年に某芸人と某女優が挙式を上げた「生田神社」(神戸市生田区)。
稚日女尊(わかひるめのみこと)の「吾を活田長峽国(イクタノナガオノクニ=摂津国八部郡生田の森に居る」とのお告げを神功皇后がお聞きになり、今の山陽新幹線・新神戸駅の奥にある布引山に201年に創建しました。稚日女尊は天照大神の幼名とも妹ともいわれています。
その後、799年( 延暦18年)4月9日の大洪水により、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地に移転したといわれています。生田の森に遷座する約600年前の201年の創建なので、この600年の間に何があったのか、201年創建の信憑性は微妙です。
3つ目は「長田神社」(神戸市長田区)。
「吾を長田国に祀れ」との稚日女尊のお告げを受け201年創建。天照大御神を祀っています。創建を命じたのが神功皇后の皇子・第15代応神天皇ということから、果たして201年の創建なのか微妙です。
では、5つある神社のうち、どの神社が「大津渟中倉之長峡」に当たるのか?
長田神社と廣田神社、生田神社は神功皇后が天照大神のお告げにより創建されたことから天照大神が祀神となっています。
ちなみに天照大神は、「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼と同一人物説がありますが、日本書記では神功皇后は卑弥呼だと匂わせるくだりがあります。天照大神を祀神とする長田神社、廣田神社、生田神社説では、天照大神=卑弥呼となってしまい時代的に整合性がないようにも思われます。ただし、天照大神は弥生時代の人物ではないという学者もおり、天照大神=卑弥呼説は依然として存在しています。
ただし、神託・創建が201年とドンピシャであることに疑問が残る上、祀神に第15代応神天皇が入っている社もあり、3社は大津渟中倉之長峡ではないと私は思っています。
そうすると本住吉神社VS住吉大社となり、まるで本居宣長「古事記伝」VS富士谷御杖、平田篤胤、橘守部の連合軍の激論になってしまうのですが・・・
とはいえ冷静に考えると「吾が和魂をば大津渟中倉之長峡に居さしむべし。便ち困りて往来ふ船を看さむ」というくだりから、船が行き来する海上交通の要でなければならず、大和朝廷(ヤマト王権)の入り口にある大阪市住之江区の「住吉大社」説の方が濃厚と言えます。
一方、本住吉神社の社伝では「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に記す神功皇后が住吉三柱神を鎭祭した大津停中倉長狭にあたり、さらに『摂津国風土記』逸文の住吉条には「沼名椋の長岡の前」とあることから、大津停中倉長狭=本住吉神社ともとれます。
また、神功皇后が三韓征伐後に畿内に帰るとき、異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑みましたが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したというくだりがあります。
忍熊皇子は、菟餓野(とがの、神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を占う狩りを行なった際、坂皇子がイノシシに襲われて死亡したことから恐れをなした忍熊皇子は住吉津に後退したとあることから、神功皇后軍との最初の激戦地が神戸市東灘区であり、平定後の創建が妥当であると考えると、201年よりも数年後の創建説の方が有力のように思われます。
こうなると住吉三神を「本住吉神社」に祀った3年後に、大和朝廷の海運の要であった大阪市住之江区に遷座して、国家祭祀の対象として「住吉大社」を創建したと考えてもよいと思えるのです。
激戦の地よりも海運の要の方が栄えるのは当然であり、「住吉大社」が大津渟中倉之長峡と唱えるのもわからないでもないのですが、おそらくは「本住吉神社」説が有力と言えるでしょう。
いずれにしても、神話や、古事記、日本書記など後年に書かれた書物、さらには戦争の勝者が都合よく改ざんした奇抜な逸話の積み重ねの歴史こそが、日本史上「空白の4世紀」と言われる間の日本の歴史なのです。
空白の4世紀、日本は大和朝廷(ヤマト王権)へと政治的にも文化的にも大きく変貌を遂げる時代でした。最近では宮内庁の管轄外での遺跡や出土品から空白の4世紀の解明が少しずつ行なわれているので、いずれ神功皇后の生存説が解明される事でしょう。
空白の4世紀、日本で何が起きたのか、大津停中倉長狭で何が起きたのか、歴史学者でも郷土史家でもない私には全くわかりません。
しかし、本住吉神社の氏子である私は、大津停中倉長狭こそが本住吉神社であり、神功皇后生存説についても、無手勝流にもほどがあるかもしれませんが、支持し続けなければならないのです(笑)。そしてその支持を心のよりどころにし、想像力を膨らませて楽しんでいるのです。
あと1ヶ月弱で、2024年度の例大祭が執り行われます。私の祭りバカモードも全開です。