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自分年表 未来を後悔しないため過去を振り返ってみた

1976年(0歳)〜誕生
▼朝8時頃、長男として誕生。
▼一人で出歩くことが好きで親をよく困らせていた。
▼幼稚園の頃、女の先生が怖くてビビっていた。菊組だったが大人になって縁起が悪いと思った。土曜日の昼に出る瓶の珈琲牛乳にハマり今も続いている。
▼幼稚園の授業で行ったサッカーで写真を撮られ、プレーしている姿の写真が幼稚園のチラシに採用される。
▼テレビに出ていた欽ちゃんが好きでよく観ていたらしい。

1982年(6歳)〜小学生時代
▼人見知りとビビリモード発動で通学をごねり泣き出すも親に強制的に連れられる。この頃、若干いじめられっ子の面が顔を覗かせる。
▼2年生の頃、学校近くにあった家に長いポールが立っていて、それに向かって何度も雪玉を投げていたら、住人のおじさんが出てきてめちゃくちゃ怒られる。家に戻った後ニュース速報に出るのではとテレビを観ながらビビる。健気。
▼2年生の頃、プロレス中継でジャーマンスープレックスを観て衝撃を受ける。その後従兄弟のおじさんにプロレス大百科を買ってもらう。
▼2年生の時に見学した極真空手に習うも怖くて半年もせず辞め、町内の少年野球チームに入り、いきなりレフトで先発。
▼2年生の正月、お年玉でファミコンを買う。初めて買ったソフトはアイスクライマー。
▼誕生日に担任の先生から彫刻のネームプレートをもらう。
▼プロ野球カードが学校で流行り、近所にあったフレンド商事という謎の事務所にしかなかった古い年度のプロ野球カードを買い集める。
▼3年生の時に小学校内のサッカー少年団の先生からスカウトされ、親から野球とサッカーどっちかを選べと選択を迫られ野球の方がトロフィーをもらえるという子供らしい短絡的な考えで野球を継続することを選択。人生で初めての選択だったと思われる。
▼東京へ家族旅行に出かける。大崎駅直結のホテルに泊まったことと原宿でタレントショップを周り「元テレショップ」で長袖のTシャツを買ったこと、東京で食べた回転寿司が美味しくなく、北海道の方が美味しいなと思った思い出しか残らなかった。
▼4年生の時に地区にあったクラブチームに選ばれ6年生まで町内とクラブを掛け持ちする。
▼4年生の時に風邪で体調を崩し途中出場した試合で初めてランニングホームランを打つ。とは言っても記録上は1ヒット3エラー。
▼4年生のクリスマスに大流行していたスーパーマリオブラザーズ3を買ってもらう。
▼4年生の頃に見たサッカー全国大会でベスト4に進出した室蘭大谷のエース財前・司令塔野田・キャプテン山本亘・キーパー星野に憧れる。
▼5年生の頃、北海道新聞社が発行していた少年野球の冊子にチームの紹介とともに一人一人の選手にも触れ、そのなかで地肩が強いと紹介される。
▼5年生のクラブチームの新人大会でサード兼リリーフピッチャーとして出場。そのなかでの試合で1アウト満塁の場面でリリーフし無失点で記録し白石区ベスト4にそれなりに貢献。
▼5年生の時に先輩の最後の試合である地区オールスター戦を観戦。となりの丁目のチームにピッチャーだった人がファーストを務め、ショートバウンドをバックハンドでキャッチするなど、そのセンスの良いプレーに衝撃を受ける。
▼5年生の時にテレビで見たプラティニの胸トラップから反転してのボレーシュートを真似して練習する。
▼5年生の時、光GENJIがデビューし大ブーム。トップテンで観たデビュー曲「STAR LIGHT」を見て好きになり、大通のポールタウンのレコードショップで諸星和己のカンペンを買う程ハマり、6年生の時に卒業前最後のクラスレクレーションで光GENJIイントロクイズが行われ女子を差し置いて正解を連発。しかもメジャーな曲ではあえて答えず、マイナーな曲の時だけ答え、知識の違いを誇示する底意地の悪さを発揮。
▼6年生の頃、「とんねるずのみなさんのおかげです」大流行し学校では、仮面ノリダーや保毛田保男などの話題がメインになっていた。
▼6年生の算数のテストで計算など単純な問題は満点で頭を使って解く問題は全滅で答え合わせの授業の時に先生に名指しではなく遠回しにダメ出しされる。
▼6年生の町内チームで参加した地区の春のリーグ戦でホームランを連発されたのきっかけに、学校の図書館で読んでいた野球の本を参考に、大会の参加賞で貰ったノートによく打たれるバッターの弱点と長打を打たれたコースを記録。クラブチームの試合に出たときは日付・大会名・打席数・安打数・打率を記録した野球ノートを付け始める。
▼6年生の時、夏の北海道大会予選の1回戦で当時北海道最強との呼び声高かったチームと対戦し5回コールドの大敗を屈し、あまりのレベルの違いにわずかながら才能の限界を感じ始める。
▼6年生の時、運動会のリレー選手を決める際、最後に争う生徒には確実に勝てるのはわかっていたものの、勝っても補欠だと知り、途中で走るのを緩め相手に勝たせるも、先生に問いつめられ正直に話し補欠ではないと説得され結局再戦しリレー選手に。
▼母親に米米CLUBのアルバム「KOMEGUNY」「SINGLES」を買ってもらいハマる。米米CLUBの音楽を体験以降、ベースがうねり、ホーンセクションがあるファンキーなサウンドに大人になっても反応し好んで聞くようになる。
▼6年生の夏の練習でチームメイトの親が投げていたピッチングフォームを参考に地区大会の準決勝で強豪チーム相手に善戦。7回1失点に抑え延長に入るも惜しくも敗戦。
事前に監督からキーマンの1番・4番バッターの弱点を教えてもらい、また付けていた野球ノートを活かしたピッチング内容は今振り返っても史上最高の出来で、この試合を観戦していた父親が泣いたらしい。
この大会で優秀選手賞を受賞しメダルをもらう。
▼人生で初めてアイドルが好きになった南野陽子の写真集をスーパーの本屋で見ている所を母親に見つかり、よくわからない言い訳をする。
▼6年生の秋、地区大会初優勝。
決勝戦でノーヒットノーランと先制点となるタイムリー2ベースを打ち、最優秀選手賞に受賞。
ノーヒットノーランは閉会式で初めて知るほど実感がなかった。
それよりもタイムリーとなった左中間を綺麗に破った2ベースは会心のバッティングで今でも鮮明に感触が残っている。

1989年(13歳)〜中学生時代
▼自分の意志とは関係なく入学と同時に自動的に野球部に入部。
2年先輩のエースの精密機械のような制球力あるストレートと遠目から見ても変化しているのがわかる縦のカーブを活かした頭脳的なピッチングに感心する。
▼向かいのアパートに引っ越し念願の自分の部屋を持つことになる。
▼ラジカセで夜AMラジオ「うまいっしょ倶楽部」「ベストテン北海道」「アタックヤング」「オールナイトニッポン」を聞くことにハマる。
▼1年生から家庭教師を付けさせられ、学力向上に寄与したかはわからないが、高校受験合格直後先生の家で、宮沢りえの写真集を見せてもらった時、初めて家庭教師のありがたみを感じた。
▼1年生の冬、たまたま深夜に見た全日本プロレスにハマり出す。
野球部の同級生に借りて観たビデオで三沢のファイトに興味を覚える。
▼お小遣いでドラマ主題歌になっていた宮沢りえのシングル「NO TITLIST」を買う。初めて自分で買ったCDとなる。
▼2年生の頃、部活をサボりいつメンで毎日を過ごす。
昼の番組の時にCMで流れていた某テレビ通販会社にイタズラ電話をしたり、ロケット花火戦争など文字通り、中2病を発症する。
▼同級生に借りたプロレスのビデオを観た以降2年生の頃、本格的にハマり出し、週刊プロレスを購読、シリーズ前と重要な試合は週刊ゴングも買い熟読。
全日の記事が多いときだけ週刊ファイトも購入。
一時SWS憎しと思う程、週プロでターザン山本に脳内をジャブジャブ洗わされたが、当時全日を担当していた市瀬記者のレポートを隈無く熟読していた。テレビ中継も録画を始める。
91年の4月に行われた鶴田対三沢の三冠戦は特に楽しみで放送は1週遅れの中継だったので雑誌購入をテレビ中継後にするほどだった。
▼1991年5月21日、札幌中島体育センターで開催された全日本プロレスを観戦。初めて生でプロレスを見て感動する。
▼2年生の時に友達の影響でBOØWYにハマる。部屋の棚のガラス扉に自作のカッティングシールを貼ったり、レンタル屋からアルバムをカセットにダビング、ライブビデオを観まくるなど解散していたけど第2次BOØWYチルドレンとして熱心にハマっていた。
▼2年生の時の中間テストで社会60点中51点と言う好成績を挙げるも、嫌いでしょーがなく、まるっきりテスト勉強をしなかった理科では60点中2点という目も当てられない結果となり、後で担任にバカにされ、そこで点数が間違っているという変な意地を張り、細工をして点数が間違っていると理科の先生に抗議。
先生も明らかに細工に気付いていたが渋々了承。2点から6点に。数学と理科は一生得意科目にはならないと悟る。
▼2年生の頃からクラスでの立ち位置が面白担当になっていることに気付く。子供によくある動きで笑いを取るスタイルではなく、言葉の組み合わせや、誰も使わない様なトリッキーな表現で笑いを取っていき、クラスの女子人気で常時3〜4位(自己調査)を獲得するプチモテ期が到来。
▼2年生の夏、いつものメンバーの一人が千葉県に引っ越すことが決まった時にいつものたまり場となっていたメンバーの家で当時流行っていたラジオ、「うまいっしょクラブ」を真似て、そのメンバーにエールを送ったり、曲を録音したカセットテープを渡す。
それよりもその時に初めて出前を頼んで食べた味噌ラーメンの方が気になっていた。
▼3年生の体育大会で100m走で学年4位、1500m走は4分47秒で学校記録を更新するも0.01秒差で2位。
▼3年生の時、今まで続いていた中体連の地区大会連続決勝戦進出ができず1回戦であえなく敗退。
自分で言うのもなんだがサボってばかりで練習をしてなかったので当たり前の結果だった。
▼好き嫌いな科目で点数がはっきり別れるため学年の中で中の下の階層にいたので公立はランクを一つ下げて新設校を受験しろと担任から言われたが抵抗して同じランクの高校を受験。志望校をあまり選ぶこともできなかったが、プロレス会場で観た大学のプロレス同好会に入りたいと思ったので大学直属の私立高校に入り、そのまま大学に行くつもりだったので受験勉強はさほどしなかった。
しかし高校の校舎の荒れ具合と受験後の帰り道で反対道路から高校生にメンチを切られ、これは高校3年間が思いやられるというビビリモードが発動し、あわてて公立高校進学へシフトチェンジし、受験後の手応えのなさで親にもたぶん落ちたと告白したが、なんとか合格。

1992年(16歳)〜高校生時代
▼1年生の秋頃、サッカー部に入部するもキーパーになり、また雰囲気にもついていけず2年生になる頃には幽霊部員となり、そのまま退部。
▼1年生の時、自転車の二人乗りを先生に見つかり、次の日の昼休み呼び出され、張り手を数発食らいながら怒られる。説教されながらも脳内で三沢光晴の入場曲である「スパルタンX」がかかり、三沢のように先生の技をきちんと受け身を取ろうと思いながら耐える。
▼1年生の頃、学校の近くにあった本屋でスポーツ雑誌を読み耽る毎日を過ごし始める。
▼エロビデオを借りられない為、女優の濡れ場がある映画を探して借りていた。ネットのない時代に探し出す調査力は今思うとエグかった。
▼桑田圭佑の70年代洋楽カバーライブビデオを見て、桑田さんに洋楽の扉を開けてもらい、ミュージシャンの音楽のルーツを辿る聞き方があることを知る。
▼小橋がテリーゴディに初勝利し四天王誕生の瞬間に現場で立ち会う。
勝った後リングで拳を何度も握り勝利を噛み締めている小橋と一緒に喜ぶ。生観戦した中で文句なしの歴代ベストバウトだった。あとメインの三沢ハンセン三冠戦でフィニッシュの三沢のローリングエルボーがハンセンにクリーンヒットした音が印象に残る。
▼2年生の時、ドーハの悲劇を見て、こんなドラマみたいな結末ってあるんだなと思った。
その頃にオフト監督の著書でオフトが学生時代に学んだというマーケティングに興味を持つ。
大学で学ぼうと思い高校の先生に進路相談時にマーケティングが学べる大学を教えてくれと言ったが曖昧な答えしかもらえず。
▼2年生の頃、友達と不良で交番前で喧嘩をし、即補導される。親が呼び出される。
他の友達の親が怒っている中で、二人で来てやけに静かだなと思いながら今回はお咎めなしということで解放され帰りの車中に飲酒運転だから声をださなかったと言われ、タクシーで来ればいいのにと思いながら父親の変わった性格の養分を自分は受け継がれていると悟る。
▼同級生に借りたビデオからストレイキャッツにハマる。洋楽にがっつりハマったのは人生初。
▼近所の喫茶店に行きアイスコーヒーを飲みながら本を読むことにハマる。
▼本屋と喫茶店が一緒になった店ができたらなとおぼろげながら将来ブックカフェを開業したいと思う。
▼3年生の頃、サッカーに目覚め体育の授業では独り舞台の様なレベルの違うプレーで周りから一目を置かれる。
俯瞰で見える感覚を持ち人生で一番サッカーが上手かった時期だった。
▼進路を決めなければいけない時期に、まだやりたいことが見えず、また就職するイメージが湧かなかったため、とりあえず進学を選択。
世界史のテストで上位成績者が公表され、上位成績者に初めて掲載されたのをきっかけに総合成績が中の下だったのがトップクラスになり始める。
▼3年生の頃、英語の文法の授業で寝ていた時に先生に「授業を聞くのと寝ているのどっちがいいんだ」注意され、寝ている方がいいですと即答。
ウケると思って言ったつもりが完全に周りが心配する程の空気になり大問題となる。
▼進学を希望していたものの、対策を全く立てず受験したため落ちる。
専門学校へ行こうかと一瞬思ったが2年は短いと思い、親に頼み、もう1年チャンスをもらう。

1995年(19歳)予備校生時代
▼予備校に通いながらスーパーマーケットでバイトを始める。
店長が音楽好きだったので70年代の洋楽について話すと感心される。
▼現代文の講義で初めて文章の読み方を知り現代文が面白くなり、模試の国語で現代文100点満点中100点を取るも、古文・漢文は50点満点中0点だった。
▼学食のミートソースにハマり通学中の昼休みはほとんど食べていた。
▼バイトが休みの時は近所の喫茶店か図書館に通い勉強をしアイスコーヒーを飲みながら本を読むことに至福の幸せを感じる。
▼オリンピックアジア最終予選の初戦イラク戦で出場停止のキャプテン前園に変わってトップ下で出場した中田英寿のプレーを初めて見て、いい選手だなと思った。
後にブレイクしていく姿を見て自分の眼の確かさを心の中で確信。
▼数学・理科が致命的にできないので、始めから国立は志望せず私立に狙いを付け、当時セリエAの試合を見ていたのでイタリア語を学びたいと思い京都のイタリア語学科がある大学を受験するも不合格、滑り止めで受験した地元の大学に通うことになる。
▼親族の中で唯一大学生になったということで、親戚からは学者になるのかと言われ、どんな思考だよと心の中でツッこんでいた。

1996年(20歳)〜大学生時代
▼モラトリアム期間を取得したが何を目指そうか指針がなく、とりあえずスポーツビジネスの本を大学の図書館で読み活路を見出そうとする。
▼プロレス同好会を探すが専門になっているところがなく、張り紙にプロレスとかいろいろ書いていたサークルに飛び込みで入るもボウリングや夏の体育祭でソフトボールに出るというよくある遊び系のサークルだった。
▼近鉄バッファローズのエース野茂英雄がMLBに挑戦したのをきっかけにMLBを見始め、ワールドシリーズ第1戦でハイレベルな投手戦を繰り広げたマダックスとハーシュハイザーの頭脳的なピッチングを見てアメリカに凄いピッチャーがいるんだと思った。
▼雑誌ナンバーを買い集め出す。最速で手にするためコンビニの店頭に並ぶ時間をチェックしていた。ナンバーをきっかけにスポーツライターという職業に興味を持ち、NBAやMLBの記事を執筆していた宮地陽子さんの「スポーツライターの24時間」を買って熟読。
▼雑誌で見たイチローのHip Hop的なファッションを見て初めてファッションに興味を持ち、雑誌を見て気になったエアジョーダンやTシャツを見て買い始め、サークル内の女子からオシャレだと思われる。
▼ラブレターをもらったり、サークル内の女子5人中3人から告白されるという人生最大のモテ期到来。
▼古本屋でバイトを始める。面接で好きな野球選手を当時オリックスにいた長谷川滋利を挙げたのが採用の決め手だったらしい。
▼2年生の夏の体育祭で満塁のチャンスで決勝タイムリー2ベースを放つ。この時、自分に打席が回ってこいと願っていた。積極的な思いを持ったのは、初めての経験だった。
▼サークルとバイトの生活で講義にまるっきり行く気がなくなり、ゼミも取らなかったため同じ学年に友達もできず、留年する。
完全に親に怒られると思ったが意外にもお咎めなしでホッとする。
▼免許を取得し、親と弟の車で乗り回す。
初の冬シーズンでレンタルビデオ店へ行き帰ろうとした時に軽かったものの車と車の衝突事故を起こす。
▼サークルの中心メンバーが就職活動でサークル活動がほとんどなくなり、一人暮らしをしていた彼女の家に入り浸り、それ以外はバイトのメンバーとバイト終わりにドライブや家に遊びに行きくだらない話をする日々を過ごし中学以来の第2次青春期を迎える。
▼3年生の時に取得したマーケティング戦略の講義だけノートを取り真面目に出席する。1回目から全て出席した唯一の講義だった。
▼日経MJや食品商業などに記載されているスーパーマーケットの店舗分析ページが面白くて図書館でコピーしまくる。
▼ミッシェルガンエレファントの今まで邦楽バンドには感じたことがなかった佇まいや演奏に衝撃を受け、ミッシェルのルーツを辿るうちに初期ルースターズにぶつかりアルバムを購入。
▼3年生の時、入退院を繰り返した父親が家族に内緒で真夏の炎天下の日に野球観戦に行った後、体調を崩し入院することで親が揉めて、長男として何か言わなきゃいけない衝動にかられ父親に苦言を呈す。
人生で初めて父親に怒ったが後になって、自分の立場をわきまえず踏み込み過ぎた発言だったと後悔する。
▼モーニング娘。安倍なつみを見て可愛いと思いアイドルにまた目覚める。この時、つんく♂が巧妙に洋楽のフレーバーを刷り込んだ楽曲だとは理解できず、アイドルとしてのモーニング娘。でしか見れなかった。
▼みなおかでリアルタイムなドキュメントとして追っかけていたのをテレビで見て野猿にハマる。
▼4年生の夏、入退院を繰り返した父親が亡くなる。
数日前に見舞いに行った時、意識がほとんどない状態だったが、手を握った時に父親が涙を流した。
あれは何を意味していたのか、まだ答えはわからない。
▼施主として葬式を終えた後も手続き等でバタバタして数日寝れず。
数ヶ月前に彼女と別れたり、父親を亡くすなど、どんだけ不幸な人生だよと思いながら具体的な解決策もなくモヤモヤした感情を抱え暗黒期を迎える。
▼卒業最低単位である121単位ピッタリのギリギリで卒業。
▼卒業を機に長年続けてきた古本屋のバイトを辞める。

2001年(25歳)
▼モラトリアムな思考が抜けきらず、就職活動もせず卒業後、バイトのメンバーと車で富良野など北海道のあらゆるところに繰り出しダラダラ過ごす。
▼テレビでCCC増田宗昭社長を追っかけたドキュメンタリー番組を見て、経済人で初めて憧れの人物を見つけ、以降掲載された雑誌や著書を集める。
▼別れた彼女のことを引きずっていたので漠然と東京に行きたいと思い、転職雑誌で未経験で入れる仕事を探し東京に面接まで行って営業会社に採用されたが研修合宿で挫折。
▼東京ですぐなんか仕事しないといけないと思い転職雑誌で古本屋の店長候補の仕事を見つけ面接で今までの経験を話して候補ではなく店長として採用される。
当初は休まずワーカホリックで働いていたが、オーナーとの関係が悪化して半年で退職し実家に戻る。
▼人生で初めて鼻骨矯正手術で1週間入院する。
▼退院後、サッカースクールの募集を見て面接をするも社長が建材の営業が向いていると言われ、なぜか建材の営業を行うことに。
最初結果が出て、周りから期待の新人的な扱いを受けるが全然やりたい仕事ではないと思い始め3ヶ月で辞めてしまう。
▼その後いろんな仕事を見つけるもどれも1ヶ月もせず辞めるといったことを繰り返し周りから呆れられる。

2002年(26歳)
▼W杯日韓大会で日本中がフィーバーしているなか大手賃貸不動産会社に営業職として採用され静岡に行き、会社が所有するマンションに入り、住民票も静岡に移したが初日で体育会系のノリについて行けずダメだと思い辞める。
▼市役所のテレビでイングランドブラジル戦を見ながら、俺は何をやってるんだろうと落ち込む。
しかし実家に戻る際に飛行機ではなく鈍行列車で途中、盛岡、函館で宿泊しながら旅行気分で戻る。
戻ったら母親は呆れ顔で怒っていた。
▼インターネットでCCC増田社長が出資しているITスクールが札幌に出来ることを知り、もしかしたらCCCグループに入れるかもと思い半年コースに通う。

2003年(27歳)
▼札幌での居心地の悪さを感じ、やっぱり東京に行きたいと思い転職雑誌で提案営業という言葉の響きの良さに憧れOA機器の会社へ転職。
▼初日から連続でアポ受注でき2ヶ月後からは、単独受注ができて周囲から期待されるも仕事に対するモヤモヤ感と自分には向いていないと思いサボり出す。
▼上京して初めてのプロレス観戦。NOAH初の東京ドーム大会へ。三沢武藤の初対決に胸を躍らせる。

2004年(28歳)
▼仕事が辞めたいけど具体的に転職活動もせず結局サボり、空アポや訪問せず公園でぼーっとするなど悶々とした日々を過ごす。
▼国会図書館に通い出す。雑誌をほぼ網羅して、2階の喫茶店のミートソースは美味しいなど、ここは天国だと思えた。好きな人物やプロレスの記事のファイリングを始め現在も続ける。

2005年(29歳)
▼自分の気持ちの中で限界を感じ、まずは会社のマンションを出ようと思い、東小金井から田無へ引っ越し。
▼会社に辞めると申し出るがグループ会社の不動産会社へ異動。店舗開発に興味を持っていてそれに近いかもと思ったが、結局はOA機器の営業をやることになり、社長に置き手紙を置き同僚と逃げるようにして退職。
▼転職雑誌で見つけたWeb制作会社に転職。Webディレクターとして働き始めるも制作ソフトは使えず、また知識もなかったため何も出来ず周囲からの冷たい空気を浴びる。
2ヶ月研修後、ディレクター業務を任されるが、客先でHTML編集ソフトの使い方を教えて欲しいというリクエストに応えられず、またディレクションも知識がないことを見透かされ担当を変えられる。あまりの悔しさと不甲斐ない自分に涙する。

2006年(30歳)
▼年間50件程の案件をこなすことで経験値が上がり、ディレクター業務にかなり慣れてきた。
▼仕事のクオリティを上げたいと思い、中途入社してきた経験豊富な人に声をかけ以後、気が付いたらいつも一緒にいるようになり仕事の指針となる先輩であり友人に出会う。
▼チームのメンバーが体調不良で長期休暇のため抱えていた案件の多数を引き継ぐことになる。
この仕事をきっかけにディレクターとしてのコツのようなものを掴んだ感触を得て、同時に周りの評価が変わり、面白担当の様なキャラに後半なって行った。
▼ディレクターチーム編成が変わり、チーム1の案件数と難易度の高い案件を抱えるもチーム雰囲気が良く、またサポート担当チームから頼られることも多くなり楽しみながら仕事をこなすようになる。

2007年(31歳)
▼ディレクター業務の品質や知識向上を図りたいと思い、会社の制度を利用し専門学校へ行きソフトの基本的な操作を覚える。
ここでクライアントがやりたいことの可否判断、どのソフトを使えば叶えることができるのかなどを頭で理解できた。
▼秋に入ってきたバイトが北海道出身ということで話してみると同じ古本屋でバイトをしていたことを知り意気投合。
以来数少ない親友となる。
▼専門学校をきっかけにデザインについてより深く考えるようになり、休みの日でもデザイン関連の書籍やトークイベントに足を運び知識を吸収していく。
▼チームが解体されサポート担当チーム部署に配属され一人でディレクター業務をこなすことに。
▼東北地方の案件を片付ける使命を受け1週間仙台支店へ転勤。
支店長からの第1声が「仙台の松屋は米が違う」。それを受け初日の夕食で食べに行ったが、たしかに違い美味しかった。
以後、仙台に行く人に勧める。
▼ディレクターとしてこの会社で学ぶことはなくなったと感じ、異動を申し出てコンサルも出来るサポート担当チームへと希望を出すも、新しく出来た企画部署に異動。

2008年(32歳)
▼企画部署に配属も仕事内容は執行役員の秘書業務、総務業務がメインとなり今までに経験したことがない仕事となるも意外に向いているかもと思った。
▼平日は終電近くで休日も出勤していたため通勤しやすい所に引っ越そうと思い数年振りに阿佐ヶ谷へ引っ越す。
▼配属されて1年が経ち、会社に入ってちょうど3年になるので、次のステップへ進もうと思い転職活動を始める。
▼Web系の中で経験したことがないSEO会社へ転職。
制作ノウハウはある程度前職で身に付いていたが、公開後サイトのアクセスをどう集めるかというノウハウは習得できなかったため、それを習得するには最適な会社への転職だった。
▼今まで数千人規模の会社での仕事をしてきて、社長は自分と同じ年で社員数6人という本当の意味でのベンチャー企業での仕事は初めてとなった。

2009年(33歳)
▼年明け早々、会社の事務所がマンションオフィスからオフィスビルへと移転。移転を契機に社員が増えていった。
一人一人の席の距離が離れ、少しずつではあるが心の距離も開いてきた印象を受けた。
▼嵐の音楽にハマる。光GENJI以来のジャニーズ好き期到来。
▼給料も良く仕事に慣れ出していたところで、久しぶりに彼女が出来るも半年程別れる。年齢のせいか、あるいは気持ちが冷めていたせいか特に感傷的にもならなかった。
▼買い物の帰り、新宿駅のホームで三沢光晴の死を知りショックを受ける。数日後行われた献花式に参加し東京ドーム以後、情報は追っていたものの観戦に行っていなかったことに激しく後悔をする。追悼興行で久しぶりのプロレス観戦。

2010年(34歳)
▼ホームリングであるNOAHでは見られない三沢光晴の後継者である丸藤正道の他団体での躍動感溢れるファイトに感銘を受け、丸藤が参戦した他団体の大会へ足を運ぶ。
▼NHKでたまたま見た、ももいろクローバーの躍動感、スマイレージの輝きに魅了され以降、本格的にアイドルを追っかけていく。
▼アイドルを追っかけて行きたいという衝動が心の中でうごめいている時、会社の不祥事があり、雰囲気が悪くなり周りが辞めると言う人が多いなか、表向きにそれに便乗しようと思い会社を辞める。

2011年(35歳)
▼友人と初めての海外、フランスへ1週間旅行をする。フランス語はもちろん英語も話せない中で1日ひとりで書店やスーパーを中心に散策。海外でも生活できるかも思った。
▼打合せで電車に乗っている際、震災が発生。発生直後の新宿駅は、おそらく戦争が起きた時ってこんな雰囲気になるんだろうな思える騒乱さであった。交通機関がストップしたため、3時間徒歩で帰宅。家のものがいくつか倒れていて、前日に貯めたままだった風呂桶の水は揺れていた。
▼とりあえず独立という形で、精力的にいくつか仕事をこなすもノウハウはこの数年で蓄積してきたがスキルは習得していなかったので自己完結できないのがネックになり、いずれどこかで行き詰まるかもと思い始める。
▼ももクロのプロレス的でドラマチックな動向を在宅ファンとして楽しんでいたが、これはもう現場に行かなきゃダメだと思い、現場へ足を運び出す。
▼新たなWebサービスである「Naverまとめ」とジャーナリスト佐々木俊尚著「キュレーターの時代」をきっかけにキュレーターという存在を知り、これって自分の得意なことだと思い、名刺の肩書きにWebキュレーターと記す。
▼ももクロがプロレス的手法や元ネタとしてプロレスを引用しているならファンとして彼女達の全力パフォーマンスのライブを楽しみつつ、その瞬間瞬間を時系列にアーカイブすることによって、今起きていることの背景を知れば倍面白くなる。プロレスファンは歴史とその当時のファンの受け取られ方を知ることが大事なので、ももクロにも必要だと思いNaverまとめを使って、「ももいろクローバーZの歴史」をまとめる。このまとめの反響の大きさをきっかけに様々なアイドルの歴史をまとめ始める。
▼数年後の売上や家にかけるお金をアイドルや旅行に充てたいと思い、友人の親が所有するアパートへ引っ越す。初の埼玉へ。街の雰囲気が札幌のように思えて居心地の良さを感じた。
▼クリスマスに開催された、さいたまスーパーアリーナでのももクロのライブで人生初ライブで号泣する。

2012年(36歳)
▼正月に全日本と大日本プロレスを観戦。諏訪魔と関本のシングル戦に鶴龍対決の続きを見ている様な気持ちになるくらい素晴らしい試合だったと思ったが週プロの扱いが小さく、今のプロレスファンはそういう見方はしないのかとギャップを感じた。
▼制作案件は自己完結できないため手放したのを契機に仕事量も減り案件も減り売上が減少して行く中、気持ちは今までで一番落ち着いていた。
▼友人に誘われSKE48のライブを見るため名古屋へ旅行。
▼ももクロが西武ドームに進出したのを契機に現場を離れ、東京女子流やハロプロなど他のアイドルの現場に足を運ぶ。
▼初めてTIFに足を運び様々なアイドルをチェックする。

2013年(37歳)
▼正月、札幌へ久しぶりに帰るも、夜中原因不明の腹痛に悩まされる。
▼モーニング娘。のライブへ精力的に足を運ぶのが、きっかけとなりBerryz工房、℃-ute、スマイレージのライブへも足を運び本格的にハロヲタになる。
▼母親と初めてプロレス観戦。小橋引退興行を観戦し興行の流れが90年代初期の全日っぽくて、やっぱりあの時のプロレスは良かったなと感傷に浸る。
▼今まで接触は避けてきたが東京女子流FCイベントで帰りスタッフ、メンバーとのハイタッチでの見送りとなり、女子流とのハイタッチの瞬間だけ気を失いハイタッチのことを覚えていない。
▼ネットや雑誌などで追っかけていたBABYMETALのライブに初参戦。完成度の高いパフォーマンスと様々なカルチャーを絶妙に引用されたライブの世界観に圧倒される。
▼昨年に引き続き参加したTIFでDancing dollsのパフォーマンスに衝撃を受けて東京でのライブ、イベントに参加、ネットでダンドルの歴史をまとめるなど精力的に応援する。
▼昨年の暮れから断続的に続いていた謎の腹痛が秋頃にヒドくなり、たまらず救急車を呼び入院。胆管結石で1週間入院し、1ヶ月後再度入院し結石の原因となる胆石を摘出。
▼退院後、家に戻ると友人が部屋を片付けてくれていて、ありがたみを感じる。また柔軟剤によって部屋の空気・匂いが変わっていることに気付かされる。

2014年(38歳)
▼Berryz工房活動停止を発表。自分も人生について考えさせられ、現状の個人事業に行き詰まりさも感じ自分が好きなものを仕事にしてみようと思い、個人事業と掛け持ちで小売店のバイトをはじめる。

2015年(39歳)
▼仕事にも慣れて海外注文の仕事を任されるようになり輸出の仕事に興味を持つ
▼Berryz工房ラストライブに参戦し人生で2回目の号泣。
▼日本武道館近くでカラスに後から襲われる。不意打ちとは武道の精神に反する!と思ったがカラスにはわからないか。  

2016年(40歳)
▼今までで最高の仕事仲間に囲まれる。仲のいいバンドってこんな感じなんだろうな思うのと同時に今まで出会った中で最低のトップの人間性に悩まされる。仲間だけで独立しようと話が出始め、この人たちとなら上手くできるかも思った。
▼ディスクユニオンなどに通いソウルファンクの名盤を買い集め、その流れでジャズ・フュージョンも聴き始める。
▼海外輸出の仕事に楽しみを覚えてきた関係で個人で海外サイト・オークションで買い物をする。 

2017年(41歳)
▼仲間のうち2人が店を辞め新しい人が入り店の空気が一変する。今までお互い自立したメンバーがそれぞれ仕事をし、それがいいハーモニーを奏で良い意味で専門店として成り立っていたが、どこにでもあるチェーン店のような方向に向かい、またトップの人間性についていけない思いが強くなり、自分の精神が崩れ始める。
▼広い部屋に住みたいと思いリビングが20畳もある家に引っ越す。そしてオーダーメイドの額縁を購入し、マイベストポスターであるドイツ遠征の猪木のポスターを飾る。
▼家で過ごすのが好きになり、紙パックのアイスコーヒーにハマる。 

2018年(42歳)
▼事務職にキャリアチェンジ。
給料は安いがExcelを使ってデータを集計したり分析したりする仕事は自分に向いていると思いながら日々過ごす。
▼スペインのオークションで欲しかったペップバルサのドキュメンタリー映画ポスターを見つけ落札。 

2019年(43歳)
▼家でテレビを観ることがなく、iPadでYouTubeやアマゾンプライムしか観ていないことに気づき、もういらないなと思いテレビを売る。
▼ブックオフ巡りにハマりだす。
欲しいものはアマゾンで買えばいいのに、急に欲しかった本に出会った時の喜びを感じたいが為にアマゾンで買うのをなるべく控える。
▼noteを始める。   

2020年(44歳)
▼突然ハンドドリップのコーヒーにハマり、コーヒーグッズや雑誌、豆を探し始める。
▼Excelを極める為、MOS、VBAエキスパートの勉強を始める。  

2021年(45歳)
▼断捨離に目覚め、テレビ、電子レンジ、読む機会がなさそうな本、服などを大量に手放す。

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中田祐司
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