私流解釈 劇団☆新感線「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情篇」(その2)
【四半世紀のアイドルファンが想うこと★V6★ vol.182】
2023.6.11にちょっとだけ加筆修正
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デマを使って人を操る
アイ子のデマが悪質なのは、それが根拠のない内容というだけではなく、デマを利用して、人を操作し、オセロとモナ、そして周囲の人たちの破滅という悲惨な結果を招く強い意図があるということだ。
アイ子は、言葉巧みに、オセロの妻モナが同じ組の弟分の汐見(しおみ)と不倫していると疑わせる。
オセロは、ブラジルに移民した日本人の父と、ブラジル人の母を持つ、ブラジル生まれのハーフだ。オセロは、ブラジルにいる時に、デマで日本人の仲間から父が殺されている。
だからオセロは「証拠」がなければデマを信じないという。
アイ子の悪意を知らないオセロは、自分の最大の弱点をはからずも晒してしまったことになる。逆説的にいえば、証拠が出てくれば、オセロはデマをデマではなく真実と信じることを。
シェイクスピアの「オセロ」では、オセロが妻に渡したのはハンカチだったが、こちらでは「岩塩」だった。一回目の観劇の際は「え?岩塩?」とハテナだったが、ブラジルの占い師の手によるもので、親から受け継いだ、オセロにとっては夫婦の愛の証だった。
その岩塩を、もちろんオセロは愛するモナに渡していた。
それを知ったアイ子は、これがオセロのいう「証拠」にできると気づく。
証拠の捏造を決意する。
アイ子は、店も経営し、そこでエマというホステスを雇っている。アイ子は、エマが夫(服役中)との家が欲しいという欲求に漬け込み、オセロが愛の証としてモナに送った岩塩が、モナの部屋のどこにあるかを教えさせ、エマから受け取る。アイ子はその岩塩を汐見の部屋に置いた。
かように、エマはアイ子の本当の狙いを知らず、アイ子は、エマの夫への愛と、よくばりな気持ちに漬け込み、家がもらえるならという無邪気な悪意を利用する。
そして、仕上げとして、アイ子は、オセロに、汐見が岩塩を持っていることがわかるように、巧みにオセロを誘導する。
モナが汐見と不倫して岩塩を渡したと信じきったオセロは、モナを自分の手にかけるという、アイ子の望んだ破滅の道を選んでしまう。
この舞台を観てて最初に感じたのは、オセロへのじれったさだ。なぜアイ子の言葉に惑わされていくんだ、モナや汐見に確認すればアイ子のデマがすぐわかるのに…というじれったさ。
しかし、観終わった後思ったが、証拠の捏造までされたら、モナや汐見がどんなに潔白を訴えても、オセロにとってはかえってウソや言い訳と聞こえ、信じることはできなかっただろう。
悪意の無くならない世界でどう生きていくのか
相手が悪意を持っていてこちらが気づかず、自分より人心掌握に長けている場合、相手のデマを見抜くのは難しい。いや無理だというのをこの舞台は描いている。
最初は、なぜシェイクスピアの「オセロ」を日本版にするに当たって、舞台を反社会的勢力の世界にしたのかという疑問を感じた(私は普段反社会的勢力の世界のコンテンツを見ない)。
考えるに、この世界ほど、悪意に従って素直に動く世界がないからだろう。
脚本の青木豪さんも演出のいのうえひでのりさんも、エンタメのプロ中のプロだ。
エンタメで客を困らせるのが、世界観がぼやけてはっきりしない場合だ。私達は何の世界を観させられてるのか、設定がぼやけていると、観客の頭の中では混乱が続き、ストーリーも十分に頭に入ってこない状態となる。
この舞台では、これは反社会的勢力の世界だ、だから悪意に従って動くという原理がある世界だと観客にすぐに理解させることができる。
設定で観客を迷わせない、そして観客の感じる・考えるエネルギーは、創作者が伝えたい部分に集中させる。場合によっては結末などが余韻となって、観客の解釈に委ねるようなものでもよい(むしろそういう舞台の方が観終わった後満足感が高い)。
ドラマでも映画でも、コンテンツを見ていて「何の作品なのか?」と迷わされる作品は、この割り切りができてないことが多いと感じている。
でも世界観の割り切りは、創作者には怖い部分だ。世界観を振り切る思い切りも必要だし、設定を極端に固めると表現の幅が狭まる怖さもある。
もちろんこれらは私流の解釈だが、面白い舞台は、思いっきり振り切るところと、観客の解釈に委ねる場面とのバランスが絶妙のものが多いと感じている。
オセロは、反社会的勢力の組員でありながら、組長を体でかばったり、モナとの愛でカタギになる決意をしたり、非常に純粋で悪意がない人物として描かれている。
その分、簡単にアイ子のデマや罠にはまってしまう。
そして悲劇となっていく。
この世は、この舞台の世界だけでなく、程度の差こそあれ悪意を無くすことはできない。できれば悪意には、はびこってもらいたくない。
しかし、悪意により悲劇となるこの舞台を見ると、救いようがないものに見えてしまう。
何せオセロは組長の妻のアイ子を信じており、疑うことをしない。信じる人からの悪意にオセロは結局飲み込まれてしまった。
本当はオセロはどうすべきだったのか、その答えをこの舞台は特に提示しない。この絶望的な状態でどうすればよかったのか、それは観客一人一人が感じてくれればいいというものだろう。
でも、愛する人や大事な人と、やっぱり十分に話すことは大事だなあって思った。仮にその言い分が信じられなくて最後の選択を間違うことになったとしても。
(続く)
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