卒業論文 1章「私たちのネット社会運動の成果と可能性」
1-1.なぜ私は声をあげたのか
留学中の新型コロナウイルスの感染拡大によって、大半の日本人留学生は大学や奨学金機関より奨学金打ち切りや帰国指示を受けることになった。これに対し私を含め、少なくない日本人留学生が不満を抱えていたことはSNSなどを通じて知っていたものの、神戸大学から海外へ留学していた70名の学生のうち、帰国指示後に帰国した学生は8割以上の59名(2020年3月26日時点)であった⁹。このことは、神戸大学生にのみ当てはまることではなく、後の日本人留学生の実態調査(資料3、資料9)を見ても7割以上が(予定を含め)帰国の判断をとっていたことが分かる。不満はあるけど「仕方がない」と目の前の理不尽さを受け入れる周囲の学生に対して違和感を覚えた私は、変わらないかもしれないけど目の前の「おかしな」現実に「声を上げるのは無駄じゃない」という思いでこの運動に至った。それは単に理不尽さを受難するという姿勢への批判ではない。私たちが同じ社会に生きている以上、「公の利益」ためにしばしば理不尽さを受け入れることは必要とされる。しかし、その際に重要であることは個人にとってそれが多少の理不尽さを伴う場合であっても、それが確かに「公」の利に適うということである。真に「公」のためになるかどうかが明らかになることは難しいにせよ、その上で依拠する判断材料を明示することや、対話を通じた理解の促進というプロセスは不可欠であるはずだ。一方、今回の事例では、当時の非常事態に際し本当に「一斉に学生を帰国させること」や、「帰国指示に従うこと」が、その目的としての「学生の安全や安心」に沿うものか誰も分からない状況下で、その判断に具体的な根拠があるわけでもないままに、それを決定した上からも、決定を受け入れる下からも双方的に「なんとなく」正当化されていったことへの危惧であった。それどころか、この決定にそぐわない行動をとったものに対する罰則が大学当局によって検討されていたり、指示に従おうとしない学生に対して同じ当事者としての学生が批判したりしていたという「全体主義的」な空気感への危機感であった。結果として、個人の力だけではどうにもならないほどの窮地に追いやられていた当事者が、これに対して声をあげたとしても「自己責任」や「わがまま」としてみなされ得る環境が醸成されており、個人が社会的な困難を個人の問題として「受難せざるを得ない」状況であったとも言える。しかし、「仕方がない」と諦めているようでも実際にはどこまでも納得はいっておらず、不満を抱えたまま流れに従ったという状況であったことが、SNS上での吐露や後の実態調査からも明らかではあった。この意味で、筆者が声をあげた先は何よりもまず同じ当事者としての日本人留学生たちであり、抗ったのはあらゆる決定が「なんとなく」正当化されていく空気感に対してであった。
以下、新型コロナウイルスの世界的な大流行という未曽有の事態において海外留学中の日本人留学生が直面した受け入れがたい理不尽な困難について概説していき、筆者らのネット社会運動がもたらした変化や、それがいかに成し得たのかについて検討する。
1-2.私たちのネット社会運動とその成果
1-2a. コロナ禍での「要請」と日本人留学生が直面した困難
今日もなお猛威をふるう新型コロナウイルスの感染拡大は、2019年12月に中国の湖北省武漢市で最初の確認がなされ、その感染は東アジア地域を中心に広まり始めた(表2)。日本で注目を集めた2020年2月のダイヤモンドプリンセス号における集団感染(クラスター)の時期でも、日本人留学生も海外留学プログラムを開始していた¹⁰ことを考えると(※東アジア地域を除く)国内外問わず、新型コロナウイルスの危機に直面しているのは東アジア地域であり、その他の世界では対岸の火事とみなされていた。ところが、瞬く間に全世界へと感染が拡大するや否やWHOはパンデミック宣言(=2020年3月11日)を発令し、各国も行動規制や検疫を強化するなどの対応をとり、日本人留学生を取り巻く環境は変わっていった。私がいたポーランド(2020年3月4日国内初感染確認)のワルシャワ大学では3月11日より4月14日までのオンライン授業移行が決定され、ポーランド政府は3月15に事実上の国境封鎖措置を施行したため¹¹、現地で感染に注意しながらオンラインで留学を継続するほかなかった。しかし、それは感染者数が多い日本へ帰国することや、自らが帰国後に感染源となるリスク、帰国者バッシングへの不安、帰国費用や何よりも留学を断念したくないという思いなどと比較したときに最善に思えた。こうした対応は、例えば罰金付の外出禁止令措置がとられるフランスやロックダウン措置はしないことを早期から表明したスウェーデンなど、国によって程度の差はあれ何らかの方針がとられており、それに応じて日本人留学生もそれぞれ何らかの判断をしていたと考えられる。
ところが、日本人留学生は次に「奨学金支給の停止」と「帰国指示」、ならびに場合によっては帰国後の「自主隔離措置」という困難に直面した。3月16日に日本の外務省は英国、アイルランド全土を除く欧州全ての国に対して感染症危険レベル2を発令(表10)したことにより、独立行政法人日本学生支援機構(以下、JASSOとする)の定める規定の通り、留学中の奨学金の支給は停止措置となった¹²。これは、派遣学生の身の安全や健康を守る観点からすでに渡航をしている者へも適応されるものとされ、日本人留学生のすみやかな帰国を促すものでもあった。そして、神戸大学でいえば翌17日に学部長より帰国指示の旨のメールが通達され(資料1)、各大学(※全てではない)から留学生への帰国要請あるいは指示がなされることになった。帰国をしたとしても、厚生労働省の国内での検疫を強化する方針(表11)によって、欧州であれば3月21日以降に帰国した場合、自宅またはホテル等の待機場所において、入国した次の日から起算して14日間は同場所で待機し、同場所から外出しないこと、公共の交通機関を使用しないことを検疫法36条の規定をもとに申告する義務が課されることになった。これにより、地方出身の学生や家族への感染を恐れた学生らが14日間分もの隔離費用を負うことになったが、帰国者バッシングもあった中でそもそも予約を受け付けてくれるホテルも限られているといった困難が付きまとっていた。
こうした事態の中で、日本人留学生たちの実態はいかなるものであったか。後で共にオンライン署名運動をすることになるH氏によって、トビタテ!留学JAPAN(以下、トビタテとする)奨学生73名(有効回答数71件)を対象にアンケート調査(2020年3月21日‐3月23日)が行われており、以下それを参考にみていく。(資料3)
資料3<ヨーロッパ留学中のトビタテ生に対する新型コロナウイルス及び感染症対策の影響に関する実態調査 2020年3月24日 H氏作成>
まず明らかであることは日本人留学生たちの経済的困難である。この調査では全員が奨学金の受給者であるため、「奨学金の支給停止」規定による影響を全員が受けている。その上で、帰国済み者(46%)と帰国予定者(21%)はすでに一時帰国のための帰国便を自費で新たに購入する必要があった。欧州各国ですでに移動規制が課され始めていた中で、航空便の数も減便やキャンセルが相次いでいたために、通常よりも高額な費用を負担する事例も相次いでいた。その上、「留学先での賃貸契約」に関する回答では、帰国済みの者で60%が、帰国予定の者で47%が、賃貸契約の解除が未完であり、支払いの継続あるいは支払いの猶予の状況であった。奨学金の内訳として留学先での生活費は主であるが、奨学金の支給が停止したことで彼らは帰国後も経済的負担を覚悟する必要があった。また、帰国予定の者に限れば、すでに日本国内の水際対策強化措置が始まっていたため、帰国後の自主隔離費用もかさんだ。中でも33%が隔離先として「ホテル」を選択しており、空港から公共の交通機関を使わない範囲で14日間分の宿を確保する予定であったことが分かる。その困難は経済的なものだけではなく、帰国者バッシングもあった当初はホテルの予約をとること自体のハードルもあり、それゆえにまた高額なホテルを選択するほかなかった学生たちもいた。こういった経済的な困難は帰国予定の学生だけではなく、もちろん留学先に滞在を決めた(27%)、あるいは滞在せざるをえなかった(6%)学生たちにも当てはまる。むしろ彼らの中には帰国する上で必要となる経済的な困難が負担になっていた場合も考えられるが、現地での生活費はかかり続けるため、その生活への影響が出ている者もいた。(帰国の見通しが立っていない者で25%が、帰国予定のない者で63%が「現時点で生活に影響している」と回答)
こうした困難が滞在先や学生によって様々であったわけであるが、一律の「帰国指示」を受けることになった。帰国済みの者で43%、帰国予定の者で33%が「所属大学より帰国指示を受けたため」を帰国する理由として挙げており、この帰国指示が学生の帰国という選択で最も大きな要因であったことが分かる。それも、先に見たように約半数の者がまだ賃貸契約も解除できていないという状況下で帰国の選択をとっていたことを考えれば、現地にいた学生が非常に急いでその指示に従おうとしていたことがうかがえる。とはいえ、大学の帰国指示は「学生の身の安全」を最優先することを意図していたが、日本人留学生たちの帰国の理由として「当該国に滞在することによって感染のリスクがあったため」と回答したものは、帰国済みの者で0%、帰国予定の者で7%と最も少なかった。もちろんこれは主観的な憶測にすぎないが、現地にいた学生たち自身が「身の安全」の不安を大して感じていなかったという事実は、帰国指示という強制力を出した大学当局の意図との大きなギャップを示している。それどころか、帰国の見通しが立っていない者の50%が、帰国する予定のない者の37%が、現地で「公共交通機関の使用等、移動によって感染のリスクがある」ことをその理由として最も多く挙げており、大学の帰国指示の意図が学生の不安をかえって煽っているとさえ言える。非常事態であったがゆえに、状況を把握する以前にこうした急な決定をしたという背景も否定はできないが、そうであるならば、具体的でなくとも予め経済的援助をすることを検討していると周知するだけでも、当時の学生たちを安心させたのではなかろうか。
このように、滞在する国や個人の事情によって様々な日本人留学生を帰国させることがその目的としての彼らの「身の安全と健康のため」なのか、実際のところ誰にも正解は分かり得ないはずであり、その選択肢は彼らの自己決定権に委ねられてもおかしくなかったと思われる。それでも大学が一律に「帰国指示(要請)」を出したために、多くの日本人留学生は不安を抱えた中で帰国を選択したり、残留を選択したり、どちらも選べない状況にいたりしたわけであるが、こうした措置に対して、少なくとも筆者が所属する神戸大学でいえば、日本人留学生の不安を和らげるような対応策は不十分どころかほとんど取られていなかった。またこの決定の中身や根拠もこれに関する責任も曖昧なもので、当時神戸大学からの帰国指示に従わず留学先であるオーストリアに残留していた学生(S氏)の件でS氏の担当教員(O氏)と留学担当者(G氏)との間で交わされた連絡(資料4)からよくわかる。
このように、神戸大学でいえばその「帰国指示」という決定そのものが非常に曖昧であり、一見学生の側に選択の余地があるように思えるが、「実質的強制」的な措置であったともとれる。にもかかわらず、「強制措置」とした際の対応策は考慮されていないばかりか、オーストリアに残留していたS氏は、現地大学における「交換留学生」という身分も剥奪されかねない状況だったことに加え、指示に従わない処遇として大学本部より現地での「留学生危機管理システム(OSSMA)」の打ち切りという罰則まで検討されていた。このように日本人留学生は現地国での対応(外出規制など)、日本政府による対応(奨学金の支給停止措置や水際対策強化など)、大学による対応(帰国指示など)によってあらゆる理不尽さに直面していた。
1-2b. 個人的主張から集合的な主張へ
こうした背景から、私は大学に現地滞在を認めてもらうことを目的に意見書¹³を提出し、JASSOにも奨学金支給停止の撤回を求めた。こうした個人としての訴えは先のオーストリアに滞在していたS氏をはじめ少なくない日本人留学生が行っており、各々が不満を抱えてはそれをどうにか改善すべく社会の変化を期待していた。ところが私の場合、大学から来た返信(2020年3月18日17:48)にて「神戸大学本部(国際部)から日本学生支援機構に確認をしていただきましたが、回答は『特別措置はない』ということ」を知らされた。このような経緯から個人で声をあげることの限界を感じ、しかし同時に、同じ困難を抱えているのが自分だけではないと感じ、YouTube(2020年3月21日「留学生むけ奨学金一律停止について」)にて日本人留学生に声をあげることを呼びかけながら、社会に向けてこの問題について訴えかけた。ふんどし姿で「日本人留学生のみんな声あげへん?」と主張した動画は、ユーチューバーとして32.5万人(2022年1月4日時点)のチャンネル登録者をもち、政治や社会課題について軽快に発信する「せやろがいおじさん」の動画を元に作成したものである¹⁴。これと併行してポーランド現地で留学をともにしていた日本人留学生Ý氏とオンライン署名の作成も行っていたので、署名を広げるためにSNSを利用することを想定した時に、この問題に直接関係のないSNSのフォロワーの方々にも注目してほしい狙いがあってのパフォーマンスだった。
この動画公開に至る以前に、日本人留学生同士の連携や情報共有の必要性を感じた私は、SNS上でのネットワーキングも行っていた。使用したものはFacebookとLINEの2種類であり、3月17日よりJASSOの奨学金を受給する学生のLINEグループを作成し、奨学金の種類を問わずに帰国に関する情報等について共有するFacebookグループを作成した。YouTubeでの動画もこうしたグループ内で共有したことで、状況を変えようと動いていること、そしてともに声をあげていくことを呼びかけた。動画の拡散は私個人のSNSアカウント(LINE、Facebook、Instagram、Twitter)を通じて行った。後のオンライン署名での訴え先は「政府」でありながら、動画やオンライン署名を社会に広く認知してもらうには、何よりもまずは私のSNSで繋がっているフォロワーに賛同してもらい、拡散してもらう必要があった。それはインターネットの世界がいくら全世界に向けて開かれているとはいえ、本当に知らない人の目にも触れるようになるには、ある程度の宣伝力(拡散度合い)が必要であったからである。初動は私の期待以上の成果を上げ、SNSの多くのフォロワーが動画を拡散してくれたがゆえに、世界各国にいた日本人留学生の目にも入るようになり、次第に私一人の声が集合性を帯びていった。
その効果として、YouTubeにて動画を発信した同21日には、Facebook上のトビタテ欧州グループ(322人‐2022年1月4日時点)にてH氏よりこの動画が紹介されていた(資料5)。そしてこの動画をみた同奨学生の、イギリスに留学していたS氏より協働できないかという旨のメール(資料6)をうけ、これより私、S氏、Y氏、H氏の4名による組織「ヨーロッパ留学生」が結成されることになった。しかし、先にポーランドで署名作成の協力をしてくれていたÝ氏は、JASSO生(月額7万円支給)とトビタテ生(月額16万円支給)の間にある大きな境遇の違いに不満があったことから、彼がこの組織に加わることはなかった。そうした中で私たちのオンライン署名「新型コロナウイルスによる海外留学奨学金の支援中断について、 奨学金支援の継続を要望します!!」は①留学先に残る学生への奨学金支援の継続と②留学先から緊急帰国した学生への奨学金支援の継続を掲げて開始した(資料7)。
1-2c.運動による成果(3月24日の方針転換と4月15日の支援金)
オンライン署名はすでに投稿していたYouTubeのページ、SNS各種にて拡散した。SNS上での拡散の速さは想像を超え、署名を開始したその日(3月22日)には国会議員である福島瑞穂(社民党)の公式Twitterにて私の動画を見たという投稿がなされた。その翌日にも玉木雄一郎議員(国民民主党)、城井崇議員(国民民主党※現在は立件民主党)にもTwitterで投稿され、Yahoo!ネット記事にも「『自己責任』過ぎる日本人留学生へのコロナ対策」として掲載された。その後も、国会議員やメディアには私たちの問題を周知してもらうことになる(表7、表8)。そして、オンライン署名開始(3月22日)からわずか2日で大きな変化が起きた。(第201回国会)衆議院文部科学委員会にて、城井崇議員が当時の文部科学大臣である萩生田氏に対して、日本人留学生の困窮状況に対しての要求
「奨学金の継続若しくは二週間の滞在先を用意するなど、国として、大臣、これは一刻も早く対応すべきです。早急に対応いただけますか。」(城井)がなされ、萩生田氏から「柔軟な対応」を検討する旨の発言を得ることになったのである(3月24日)。そして同日、文部科学省ホームページを通じてその「柔軟な対応」策が公表されることとなった(資料8)。
ここでの「柔軟な対応」とは「①速やかな帰国が困難な場合や、②留学中に感染症危険情報レベル2以上となり、やむなく一時帰国した場合であって、帰国後もオンライン等により留学先大学の学修を継続していることが確認できる場合は、奨学金の支給を継続すること」というもので、要は条件付きでの「奨学金支給継続」が認められたのであった(資料8)。わずか6日前(3月18日)には大学より、奨学金に関する「特別措置」はない通知を受けてのこの急な変化には私たちにとっても驚きであった。しかし、こうした国会での動きは明らかに私たちのインターネット上の声を受けての対応であったことが国会議員のTwitter上の投稿からだけではなく、当時の国会議事録を見ることでも分かった。表7は、筆者が2020年度の国会議事録(第201回)において「日本人留学生」あるいは「留学生」と検索して、これに該当する発言がみられた委員会のみを抜粋して作成したものである。そこで最初に「留学生」に関する言及が見られたのは文部科学委員会(3月11日)において菊田真紀子議員(立憲民主党)が行った伯井美徳政府参考人への質疑の中であった。質疑の内容は、3月5日に内閣府より公表された中国と韓国に対する新たな入国制限強化措置に関するもので、帰国する日本人への不利益を懸念する旨であったが、その一例として韓国に留学していた日本人留学生への言及と奨学金についての質疑があった。
これに対し、伯井参考人は
と回答し、奨学金の支給は規定通り停止されることが明言されていた。
また、これに対する菊田氏の返答は、
であり、奨学金支給停止についての撤回等を要求する旨ではなかったことが分かる。つまり、続く文部科学委員会(3月24日)における城井崇議員の言及が、国会において初めて日本人留学生への奨学金支給継続、あるいは帰国後の支援について指摘されたもので、私たちの要求が届いた時であった。この時のオンライン署名数は3,924筆であるが、翌日(3月25日)よりメディアでの記事や、国会議員による発信が増えたことで、署名数12,511筆(3月25日)へと飛躍的に伸びることになった。これを踏まえると、変化が起きる時点でのメディアの役割は低く、個人のインターネット上における発信がマスメディアのように拡散力を持ち、それが国会議員の目に入ったことが直接の原因だと考えられる。
この政府による奨学金支給継続という方針転換は、条件付(特に帰国後もオンラインでの受講が認められた場合)であったため、私たち「ヨーロッパ留学生」の署名上の要求通りのものではなかったが、概ね満たされることとなった。これにより、留学先に安心して残留が可能となったY氏などにとっては大きな成果であった。その後も運動を継続したのは帰国者支援についての拡充を目指したものであり、2020年4月6日の衆議院決算行政監視委員会における城井崇議員による質疑(「各国の入国制限措置に伴い苦境に陥る日本人留学生支援」)があるなどの働きかけもみられた。その結果、4月15日にJASSO災害支援金¹⁵という臨時措置がとられ、主に帰国する際の経済的な負担を減らす目的で、政府指定の水際対策強化日以降に帰国した日本人留学生を対象に10万円の給付が認められたのであった。こうした日本人留学生の問題に対する一連の変化は、声を上げる以前には考えられない事態であった。しかし、個人がインターネット上でその問題を訴え、それに共感する個人が拡散や賛同を繰り返すことによって、次第にその声が大きくなり世の中で問題として認識されるようになったのである。その結果、数日前までは通らなかった私たちの要求があっという間に認められることになった。
表4<オンライン署名数の伸び 筆者作成>
表5<政治家たちの発信(Twitter) 筆者作成
表6<メディアによる取り上げ 筆者作成>
表7 <国会において「日本人留学生」への言及があったもの 筆者作成>
1‐3. ネット社会運動への期待
1-3a. 遠い「社会」
これまで見てきたのは、新型コロナウイルスのパンデミック下で日本人留学生が直面した困難である。日本人留学生の実態調査の自由記述欄では、各人が抱えていた不満がより詳細に見て取れる(資料10)。私たちのネット社会運動によって事態を変えるに至ったものの、それは同時に何もしていなければ、これほどの困難がなんとなく受け入れられていったという現実も示していた。
私たちが「社会を変えよう、変えられる」と思いづらい要因とはどんなものであろうか。社会課題を解決しようと議論している場でよく耳にするのは、社会課題をいかに「自分事化」するか、或いは、させるかである。「社会」の課題と言っているにも関わらず、わざわざ個人が自分事のように意識を向ける(或いは、向けさせる)というのは、裏を返せばそれだけ「社会」の出来事が「私」から遠いという現実である。これを踏まえれば、私たちが社会を変えようだとか、社会を変えられるだとか思えないというのは、その変える対象としての「社会」が遠いからだと私は考える。以下、社会との距離を感じさせる要因をここでは特に現代の「個人化」と「流動化」という点から見ていく。
そもそも社会の機能というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、社会としての基本的枠組み、目的と意味を規定するものである。逆に言えば、自らに社会的な位置と役割を与えてくれないならば、一人ひとりの人間にとって、社会は存在しないも同然である¹⁶。私たちの親世代が子ども時代のころはまだ、夕方仕事から帰ってきたお父さんが道端で遊ぶ子供たちのそばにいて、お母さんが作ってくれる晩ご飯を皆で楽しみに待つ風景や、地域での行事ごとや近所づきあいが盛んで、馴染みの関係や長年の付き合いが当然であった。しかしながら、個人化が進む今日は、放課後にひとりで過ごす子どもの増加や、隣近所に誰がいるのかさえ分からない地域での関係性の希薄化が進んでいる。その上、流動化が進む今日は、多くが時間に追われ忙しなく振る舞い、転勤や移住が頻繁になってその場へコミットメントできないといった世界に変わってきた。その結果、以前より物理的にも社会の在りかを想像しづらく、個人が自分の「位置」や「役割」を得るための関係性や機会を失っている。またこうした世界では、進学や就職、結婚といったあらゆる出来事もかつてのように家族や地域、学校や仕事場での関係性が関与するのではなく、個人の選択に委ねられるようになるので、ますます個人が生きる上で「社会」を感じることがなくなる。それどころか、私たちは社会による何らかの影響を絶えず受けているにもかかわらず、私たちが手にする成功も抱える困難も、ますます個人に起因するものとされる時代へと移ろってきている。
また、個人化や流動化を推し進めてきた近代化の波のなかで人はますます自分に拘るようになってきた一方で、それと同じくらい他者のことを気にするようにもなってきた。
伝統的社会のつながりから解放された個人は、その自由を求めてきたにもかかわらず、同時にその無限の自由に恐怖も抱く。それは、根本的に人間は社会的な動物であり¹⁷、社会の存在は人間にとって不可欠であるからであり、絶えず「帰属」を求めるからである。その「帰属」を喚起する要素として、フロムは近代化の産物としての「個人」意識の高まりを挙げて説明している。
すなわち自己を自然や他人とは違った個体として意識することによって、またぼんやりとはしていても、死や病気や老衰を意識することによって、人間は宇宙や『自分』以外のすべてのものと比較して、自分がどんなに無意味で卑小であるかを感じないわけにはいかなくなる。どこかに帰属しない限り、また生活になんらかの意味と方向がない限り、人間は自らを一片の塵のように感じ、かれの個人的な無意味さにおしつぶされてしまうであろう¹⁸。(Erich Fromm)
この近代的個人は、前近代的な紐帯から解放されることを望み、今日に至るまでにますます自由を拡大してきたが、結果として自分とその身の回りの狭い世界へと閉じこもる傾向をもつ。そして、トクヴィルの「個人主義」論に基づけば、「他者のなかに自分の『同類』を見出す個人は、そのような『同類』のあつまりである社会の多数派の声に対し、圧倒されてしまいがちだから」極めて他者から影響を受けやすいという。自分が他の誰にも劣らないことに誇りをもつ個人は、同時に、自分が特別の存在ではないこともよくわかっているので、「同類」の集団に対して自分の優位を主張するために、いかなる根拠も見いだせないまま絶えず他者に影響され、圧倒され続ける¹⁹。
以上のような議論を踏まえると、個人化や流動化を推し進めてきた近代化の過程で、いかに個人から社会が遠ざかってきたかということが分かる。それでも社会の在りかを必要とする個人は、周囲の狭い世界の中に閉じこもり、私の在りかを求めながら他者の存在にも敏感になっている。その結果として、個人が広く社会に向けて声をあげることの困難さも認められる。しかし、これまでの社会的背景や個人像はグローバル規模で多かれ少なかれ重なる部分があるはずである。では、なぜとりわけ日本では社会や政治参加の割合や社会を変える意識が相対的に低いものか疑問である。それは個人化や流動化が進もうとも存在し続ける「ふつう」という幻想によるものであり、「ふつう」に沿っていない人の行動を、私たちは個人的で自己中心的な「わがまま」だと思ってしまいがちだからではないか²⁰。この「ふつう」は本質的には全く普通ではなく、「ふつうこうする」というなんとなくの標準でしかない。その意味で、「ふつう」は山本七平のいう「空気」とも捉えられ、彼によると「われわれは常に論理的判断の基準と空気的判断の基準という一種の二重規範の下に生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは『空気が許さない』という空気的判断の基準である。」そして、この「空気」に対して批判を加えることを「水を差す」と言うが、これは先の「わがまま」同様に容易になされるものではない²¹。また、ここに「ふつう」や「空気」と表現している点にも私たちの「社会」との距離感がうかがえる。「社会」と区別して私たちの生活で支配的な「世間」の概念を分析した阿部勤也の考察をもとにすると²²、自分に関係のある世界を「世間」とし、そして自分に関係のない世界のことを「社会」と捉えられる。しかし、「世間」の基盤としての地域での伝統的な風習や長幼の序、共通の時間意識などが欠けていくなかで「世間」は流動化してどこにでも現れる「空気」となった。日本人にとってある種「社会」の代用として個人を支えてきた「世間」が次第に壊れていく中で、自分を支えてくれる「共同体の匂い」を感じるために「空気を読む」わけだが²³、それは現実の社会とは異なる「何か」である。こうした社会的文化的背景に対して、外国人として外から日本を眺めたカレル・ヴァン・ウォルフレンは「私たちはいつも『言いなりになる』日本人の姿勢を話題にしたが、日本人のこうした態度が自尊心の現れでもあることを知ったのはもっと後からだった。そして騒ぎ立てないのが大人なのであって、我々外国人のようになにか文句をつめるのははた迷惑であるばかりか、子どもっぽく身勝手だと見なされることが次第にわかってきた。」と言い、日本の伝統として、たとえひどいあつかいを受けようとも「仕方がない」と諦めることを大人になった証拠とみなすと捉えた²⁴。それは一見「集団主義的」に見えるだろうが、誰もが本当の意味では利害も感情も納得のゆく形では処理しておらず、「何となく全体に合わせた」ということになっている。その結果として、たとえ不満を抱えていようとも「仕方がない」とする「空気」が出来上がる。こうした態度は、まさに日本人留学生が何となく「奨学金支給停止」や「帰国指示」に“合わせていった”ことと一致していると思われる。一方で、同様に「個人化」や「流動化」が進む諸外国(とくに欧米諸国)においては、民族にせよ、宗教にせよ、国家にせよ個人を越えたものが代わりに個人を支えている²⁵。こうしたものへの帰属意識が強固にあり、個人を支えるものが感じられるからこそ、社会に不満を訴えられる個人があるが、個人を支えるものが移ろいやすく曖昧な「空気」である日本人の場合は、空気に「水を差す」ことへの不安と「空気に合わせられた」ことへの安堵を感じる個人となる。以上の議論から、なぜとりわけ日本では社会を変える意識が低下しているのかについて、「個人化」や「流動化」という視点から私たちにとって「社会」が遠い存在になっていることを挙げた。日本では、社会の代わりとしての身近な「世間」を失い、個人を支えるものが「空気」へとすり替わっていくことで、ますます声をあげづらくなり、自分だけ「ないがしろ」にされている感を味わうことになっている。
1‐3b.組織なしに組織化する能力(the power of organizing without organizations)
対するインターネットを利用したネット社会運動が盛り上がりを見せているのはなぜであろうか。それは上で見てきたところの社会との距離や個人を支えてくれるものが「ネット上の社会」では異なり、それでいて個人化や流動化の進む今日の社会において理に適った手法だからだと考える。いかにインターネット上の空間が世界中に開かれているとはいえ、そこに声を届けるために最初に訴えかける先はSNSにおける身近なフォロワーである。そこでは誰もが「見られる」ことを前提として発信をしており、その限りにおいて「ないがしろ」にされている感はない。「いいね」という目に見える「共感」の数が増えれば増えるほどに、私の主張や私のアイデンティティは支えられ、それは「空気」以上の安心感を与えるに違いない。その点、私のYouTubeにおける動画が人気ユーチューバーを模したというのは、私の主張そのものには直接的な関係はないものの、SNSの世界で「共感」を得る上で重要な「パフォーマンス」であった。
また個人化が進もうともネット上で簡単につながることができ、流動化する今日においても、組織に拘束されるようなことなく気軽に参加できる点は大変重要である。インターネット上で投稿をシェアしたり、同じハッシュタグで投稿したりする「参加」は決して組織としての運動ではない。好きな時に(個人として)参加し、好きな時に(個人として)離脱もできるという点でも、あくまで個人の運動であるが、だからこそインターネット上の「誰でも」参加が可能となる。そして、個人の運動であるにも関わらず、数として集まる「共感」の「いいね」や「シェア」が増えるほどに、それだけ「集合的な意思」のようなものが現れているように見えるので、運動に参加している個人にも決して自分一人だけが運動している気はしない。このような「組織なしに組織化する能力(the power of organizing without organizations)」があれば、実際、物事のスピードを高め、迅速な時間枠の中で規模を拡大できる。一つの集会をまとめるのに数か月も費やす必要がなく、ひとつのハッシュタグで、抗議者を街に集めることができ、複雑な後方支援に煩わされなくても、クラウドファンディングとオンライン・スプレッドシートで事足りる²⁶。私たちのネット社会運動においても、異国にいたそれぞれ4人が、時差もある中で各々がやりたい自分の生活をしつつ、スマホ一つでオンライン署名を発信しさえすれば、同様にスマホで名前を打ち込んでもらうだけで他者を運動に動員させることができた。そして動員が上手くいけば実際に迅速にされていくインターネットの速さと拡散力は効果的で、私たちの運動でもわずか15日間でおよそ18,000筆もの署名を集め、それをもって「私たちの声」として政府に圧力をかけることを可能とした。と同時に、あくまでも組織ではなく個人の同時多発的な運動に過ぎなかったネット社会運動において、その声(個人の声)が広く普及したとなれば、「私の小さな声でも社会に届きうる」という「インターネット・デモクラシー」の可能性を感じずにはいられないであろう。それは、「空気」を気にするために私の意見を言いづらい現実社会では起こり難い話だからである。実際、私たちのネット社会運動が、各種マスメディアに取り上げられるようになる以前にすでに政治家の元にまで届き、政府を動かしていた事実が示していることの意味は大きい。インターネットの空間を上手く利用できれば、個人であっても社会を変えられるほどの影響力を手にすることができるのである。そこでの周囲の動員過程においては、いちいち組織の理念ややり方、習慣などを押し付けて縛るようなこともない。あくまでも人々の「自由」な意思によって参加するもしないも選択することができ、そうした選択の連続によって多数の支持をあっという間に集めることができるのである。そして、このような社会に「声を届けようとする」経験、そして「声が実際に届いた」という経験によって、個人と社会との間にある距離が小さくなって重なる(自分事化される)といった可能性をも感じる。遠いと思っていた「社会」は思いのほか容易に変えられるからである。
以上のようなネット社会運動の諸特徴は、個人化と流動化の結果、社会が個人にとって遠く感じられるようになろうとも問題にはならない。それどころか好ましいとさえ言ってよい。それはたとえ「空気」が気になる日本人にとっても「空気」以上に分かりやすく個人を支える環境がSNSの世界には備わっている点で声をあげることを後押しする。そして誰もが一個人として参加可能であり、比較的手間がかかることなく効果を期待できるネット社会運動は現代の社会に適合しているといえよう。そして一個人として参加しているうちに、遠かった「社会」が自分事として身近になっていく可能性を感じるのである。しかし、繰り返しになるが、筆者たちはネット社会運動によって成果をあげた経験を単なる成功体験とはみていない。それどころか、課題意識を抱き続けているのである。次章では、この課題意識を明らかにするために、筆者たちのネット社会運動が見過ごしてきたものについて具に見ていく。
註
9.神戸大学教員会議資料1「2020年催行不催行変更GSPプログラムとりまとめ」2020年3月31日朝10時版を参照
10.9の資料より、神戸大学から7名が春季留学(2020年1月、2月に渡航)を催行している。
11.2020年3月13日夜記者会見にてモラヴィエツキ首相が「3月15日零時よりすべての国際路線の旅客航空便ならびに鉄道便の運航停止」と公表。
12.日本学生支援機構にて、支援対象学生の資格・要件(8)に定められる「外務省の『海外安全ホームページ』上の『レベル2:不要不急の渡航は止めてください。』以上に該当する地域以外に派遣される者」のこと
13.筆者による意見書「ワルシャワ大学 高松 現状報告と依頼.pdf」2020年3月17日作成
14.YouTubeチャンネル名は「ワラしがみ」ワラしがみ - YouTube
15. JASSO災害支援金 JASSOへの寄付金で賄われている。緊急帰国に伴う経済的負担を軽減する目的で「水際対策強化日以降に帰国した日本人留学生」に限り、10万円の給付が認められた。
16.宇野重規「<私>時代のデモクラシー」p139
17.アリストテレスの提唱した言葉に由来。「人間は社会的(ポリス的)な動物である」
18.Erich Fromm「自由からの逃走」p28
19. 宇野重規「<私>時代のデモクラシー」p153-p154
20. 富永京子「みんなの『わがまま』入門」p26
21.山本七平「『空気』の研究」p23,p97
22. 阿部勤也「『世間』とは何か」
23.鴻上尚史「『空気』と『世間』」講談社現代新書(2009)p38,p193
24. Karel van Wolferen「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」p31
25.佐伯啓思 「『市民』とは誰か‐戦後民主主義を問い直す‐」p169, P172
26.Zeynep Tufekci 「ツイッターと催眠ガス」p8, p9
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