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溝口政親とは(2)

1687年8月、沢海藩改易後、溝口政親は実兄加藤明英の下に逼塞となりました。
逼塞とは、蟄居とは違い、夜間の外出は出来たそうです。
また、普通は、50日とか100日と期限が切られていました。
さらに終身米500俵を賜るなど、乱心にしてはまあ優遇されているなと感じます。
これは、ある意味、幕府が将来の復活(例えば三千石程度の旗本など)余地を残したのかもしれません。
一般的に、もし男子の嗣があれば、その可能性は大きいのですが。
改易時は34才だから、それから子作りしても、まだ可能性は有ったと思います。
それと、実兄加藤明英は、1690年に若年寄に就任しています。手を回せば転封は出来たはずです。沢海溝口の家臣団を相当嫌っていたのでしょう。また、本人政親も大名とか旗本に興味が無かったのかもしれません。
前回、政親は神道に熱心だったと書きましたが、平戸藩支配地五嶋荒川にちょっとした言い伝えが有りました。
その地に政親が下向して、山王権現の社人になったという話です。
それも、女児一人と使用人を連れてです。
次回からその可能性を検証してみたいと思います。

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