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沢海騒動について考えてみます(3)

おはようございます。
早速ですが、主役の溝口政親について、一般的に知られていることを書いてみましょう。
1653年または1654年に、
水口藩・加藤明友(まだこの時は石見の国吉永藩一万石)の次男として生まれました。
長兄の加藤明英は1652年生まれです。
後継ぎの補欠として江戸藩邸で育ちました。

歴史資料には特に特徴的なことは書かれていませんが、妾腹だったかもしれません。
溝口家の養子になったのは、断家譜によると1679年、26才頃となっています。
翌年、1680年に将軍・徳川綱吉に拝謁しています。
そして、1683年に沢海藩三代目・溝口政良死去に伴い沢海藩の藩主となっています。
養子になってから4年経っています。
4年も経っているんですから、沢海藩の上層部は、溝口政親の人となりはある程度分かっていたと思います。
それから、この政親は、吉田神道に傾注していたとの情報があります。

少し、この時代の状況を見てみましょう。
政親が将軍拝謁の年(1680年)に、徳川綱吉が5代将軍になっています。
大きな外様大名の取り潰し政策が一段落し、綱紀粛正のため譜代大名にも監視の目を強めた時代に入ります。
綱吉は1681年に越後の高田藩・松平光長のお家騒動に対し幕府裁定のやり直しにより、領地没収蟄居を命じています。(越後騒動)
そして、1682年、加藤家は石見から近江の国水口に一万石加増の上、移封されます。
加藤家の当時の立場を考えてみます。
徳川綱吉は、当時の老中たちの政策方針に懐疑的でしたので、若年寄や側用人を重用していました。
溝口政親の実兄である加藤明英は1689年に奏者番兼寺社奉行に就任し、翌年には若年寄に昇進しています。
自分の弟が藩主の沢海藩改易後のわずかに3年後のことです。

さらに、時代的背景を拾ってみます。
河村瑞賢が、海路・水路の整備に尽力していたのもこの頃で、いわゆる西回り航路を開いたのが1672年、大坂・安治川の第1期開削工事が始まったのが1684年です。
沢海藩と阿賀野川で経済的に関係が深い会津の保科正之が死去したのは1673年となっています。
この頃から、隣国とも言っていい会津藩は年貢米の輸送を会津から直接江戸方面に馬で運搬することを止め、阿賀野川を使って西回りで大坂に送り、貨幣に交換するようになります。

次回は、本藩・新発田藩との関係性を考えてみたいと思います。

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