FOOL という名のBAR
第9夜 影さえも光が造り出すものならば
「ねぇ、ママ、二人で初めて一緒に撮った写真」
と言って夢美がケータイを開いて写真を見せた。それは西日を背に石畳に映ったふたりのシルエットだった。
「一緒の写真を撮っても、しまって置くことも出来ない私達って切ないね。このシルエットだけが精一杯」
一緒に写真に写ることが許されない二人。ふたつのシルエットはどこか切なくてもどかしい。寄り添うことが出来ない、重なり合わない二つのシルエットに揺れる隙間に目が行ってしまった。
「逢わない、逢うのが怖いと思っていたのにさ、逢ってしまったの」
夢美はアメリカン・レモネードを静かに撹拌しながら言った。
あたしは、『妻を辞められても、母親は辞められない』と言った夢美を思い出した。
マリアのピアノは何か音を探しているように鍵盤の上を模索している。
♪ もう少し あと少し
ZARDの曲だ。許されない恋人達の切ない想いを歌っていたはずだ。
「彼が不安に思っていたから思いきって逢おうと決めたの」
「それが、彼と初めて逢った時の理由なのだね」
「ただの暇潰しじゃないかって思われたことがあった。あの時も、逢う、逢わないのやり取りから軽いケンカをした後だった」
「『八月末までじゃなきゃ時間が作れない。あなたがそう言うなら、よし、逢おう』って時間的な都合を言い訳にしたわ」
カシャ
氷が溶けてグラスに触れた。
「私達は顔も知らないまま、逢うことを決めたの。私、前日から、逢うまで何も喉を通らなかった。夜もよく眠れず、朝が近くなるにつれ、不安はどんどん大きくなっていったよ。後ろめたさとワクワク感とで。まだ陽が高い夏の日の夕方に彼の会社の近くの大きなスーパーの駐車場で逢う約束をしたの」
「昼間のスーパーなら夢美も少しは安心するかと考えてくれたのだろう」
「ウブな私を気遣う優しさかしら」
「ただ逢いたい一心さと、極力、夢美の心の負担を失くしたいという優しさなのだろう」
「ケータイで話しながら駐車場に入って行った。ケータイを耳にあてながら車を降りる彼を見つけた時、お互い『あっ』と笑ったの。あぁ ほんとにこの人はいたんだって思った」
「ふうん、初めて二人が空想からリアルになった瞬間だね」
「どんな人か想像つかないし、旦那さん以外の男性に逢いに行くなんて考えられなかった。逢っている間は何を話したかなんてよく覚えてないわ」
「逢いに来てくれたこと、夢美の気持ちは届いていたさ」
♪ もう少し あと少し
「バイバイしてからは、罪の意識と、又、逢いたい気持ちがぐるぐる回っていたわ。一時間ほど、一緒に歩いただけなのに・・・別れた後、泣きそうになったよ。何でかな?一人で居たくなくて、自宅にすぐ帰ったよ。誰でもいいから家族に逢いたかった。そうしないと、そうしないと・・・現実を棄ててしまいそうだったから。あれっ?今も 泣きそうだぞ」
数十年前にこの街ですれ違っていたかも知れないと、青春時代の恋人を想わせるような二つのシルエット。その隙間を埋める一歩が踏み出せない二人。
「若かった頃、二人が交差したかも知れない街かい・・・」
「私は結婚するまでこの街に住んでいたわ。凄い昔の話なんだなぁ。嫌になるくらい年を取ってしまったわ」
夢美がアメリカン・レモネードを飲み干した。
「“ミラノの恋 ”というカクテルを作ってあげるよ」
「楽しみ。それはママのオリジナルなの?」
あたしは、ディサローノ・アマレット、レモンジュース、ソーダ水をカウンターに並べた。
グラスに氷を詰めて、ディサローノ・アマレットを四五ml、レモンジュースを二〇mlを入れてソーダでグラスアップ。軽くステア。
グラスは一杯だけ。夢美の前に差し出した。
夢美は一口飲んで、ぱっと顔を綻ばせる。
「ミラノの恋・・・ロマンティックな名前ね、ママ」
「純愛伝説があるんだよ、このディサローノ・アマレットというリキュールにはね」
一五二五年、ルネッサンス時代のイタリア、ミラノ北部のサローノ村にあるサンタマリア・デレ・グラツィエ教会の聖堂にキリスト降誕の壁画(フラスコ画)を書くためにベルナディノ・ルイーニと
いう画家が赴いた。ルイーニはレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だと言われている。
ミラノの北、サローノ町の聖堂で壁画を描く画家ルイーニ。壁画を描く間、ルイーニが滞在した民宿の女主人は、若く美しい未亡人だったそうだ。
『壁画は順調なご様子ですね』
『はい、今夜、聖母マリアを描いて完成です』
精魂込めて壁画を描くルイーニ、それをそっと見つめる女主人。
朝、聖母マリアの壁画の前で眠るルイーニ。
そっと完成された壁画を見つめる女主人。
『あぁなんてことでしょう。なんて素敵なマリア』
そこに描かれた聖母マリアは、女主人その人だった。
ピアノの曲が変わった。
♪ ノスタルジア
Chiiの曲だ。
「お礼にと彼女が贈ったリキュールが杏子の核を原料したディサローノ・アマレットだった。繊細な優しさに秘密の成分を混ぜて作った琥珀色のリキュール」
「うん、素敵な物語、言葉にならない」
夢美がグラスを傾ける。
「ノスタルジア・・・この曲は許されない二人が凍てつく街で想い合う・・・画家ルィーニはどんな想いでミラノを去るのだろう?」
「女主人は、連れ去ってよと想ったのかしら・・・」
♪ ノスタルジア
「私達が知り合ったサイトには何十万人もいたのに出逢ってしまった。それは何故?それもこの街で青春時代を過ごしていたなんて初めは何も知らなかったのに。同学年だと知った時、心が引き寄せ合ったのを覚えているわ」
「そして、この街。この街を知っていたからだろう?」
「擦れ違っていたかも知れないねと言った彼の言葉に私は何かを感じた」
「そう、彼を、顔も知らない彼に逢ったかも知れない・・・きっとそれはノスタルジア・・・」
「通り過ぎた私達の青春時代・・・あの頃、出会っていたら、私達はどうなっていたのかしら」
夢美はケータイを開いて二人のシルエットの写真を見た。
「この画像は、ロック出来るフォルダーをダウンロードして保存したわ」
♪ ノスタルジア
「二つのシルエットの隙間を埋めるために一歩、踏み出すことは勇気だと思う?ママは」
「隙間を埋めてしまえば、歯止めがなくなるよ」
とあたしが言うと、夢美が頷いた。
「堕ちて逝くだけ。きっと止まらない、私達・・・私ね、彼と逢ってから帰るといつも前に進めなかったことを後悔する・・・でも、進めない。今の家庭が不幸な分けではない、満足している分けでもない。でも進めない。或る日、彼が言ったの。影は光が造り出したものなのだと」
「ああ、なるほど。そうだね、深いね」
「影さえも光が造り出したものならば私達の逝くつく場所も照らして欲しい」
「ふたつのシルエットに色がつくことはないのかい?」
「シルエットに私達の顔が浮かんだら、背景が色褪せてゆくような気がするわ」
「現実が消えてしまうってことかい?」
「夢の街、私達は青春時代の夢の街にノスタルジーしているのかな?」
現実の中ではふたつのシルエットには色はつかない。それは悲しいくらい純粋で、切なくて、そして若かった頃の幻のような儚さ。
「恋をしただけ・・・ではいけないかい?答えになってないかも知れないけど」
♪ ノスタルジア
「帰らなきゃ。『ねぇ、連れ去ってよ』 なんて言ったら彼は困るだけだもんね」
夢美が悪戯っぽく微笑む。
夢美はスツールを降りた。
「おやすみ、夢の街で」
♪ ノスタルジア
マリアのピアノは今宵も心を映す。
人は遠い昔に失くしたものを求める、それをノスタルジアと呼ぶのだろうか?
あたしは夢美の彼と夢美が言った言葉が心に留まっていた。
『影さえも光が造り出すものならば私達の逝きつく場所も照らしだして欲しい』
冬木はあたしが造り出した影ではないのか?あたしが出来ないことを冬木が代わりにやってくれただけではないのか?あたしの背中の光が映し出した影が冬木だから、あたしはこうして待っているのだ。本来、影があるべき場所に戻って来るのを。
虚しさや儚さが悲しみに変わるのであれば、影さえも光が造り出すものならば、戦うことの正しさを教えて欲しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?