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【本誌118話】得体の知れないもの 感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
ヤングエース2024年10月号のネタバレを含みます。

24.09.04感想

文スト奇想天外\(^o^)/
いまの本誌ジェットコースタームーヴメント終わってどっちかっていうとポップなお化け屋敷ワンダーランド\(^o^)/
たのしいお\(^o^)/

タイトルがない!と思ったらこんなところに...とか、賢治くんが逃げ若っぽい~とか、最後の展開に思わずヒョッッて喜んでしまったところとか、おもしろいところ沢山あって今月すごくエンターテイメントだった(不謹慎代表の言葉)

■吸い込まれてどこへゆく

谷崎が一瞬とてもかっこよかったので、うおー!これはいけるやつー!って興奮したのも束の間、恒例のぶっ刺し劇により敢え無くシャボン玉へと回帰。
左眼は未来の象徴なので左眼を刺された兄さまは未来を消されてしまったということで。
幻像の異能だから視覚を司る目がターゲットにされたのかな?

しかしまさかのここで!谷崎兄妹の!真実が!
ふたりは違う親から生まれた血の繋がっていない兄妹だった!!
ちゃんとセーフゾーンにいたのね。
兄さまがいなくなった後にナオミが路頭に迷うことのないよう、ナオミを本当の家族のもとに連れて行ってほしいという兄の愛情が炸裂してて心温まるいい話だった。

覚醒した賢治たちが特大のジョークをぶつけてきたの結構ずっと笑ってる。
空間をまたぐ時空剣と空間を跳躍した神人に対抗する術が、ビョーンって伸びる鐡腸の軍刀と力技で飛ぶ空間跳躍だったのアナログすぎてほんとおもしろい。しかもちゃんとヒットしたところがもうずっとおもしろい。
賢治君の怪力の象徴は力を放つ手だし、強化されてそうな肉体も木っ端みじんに砕かれている。神人が攻撃した箇所が異能力とゆかりのある場所なのは興味深い。

燁子の肉体は異能技師によって改造されているだけでなく、年齢操作という身体を七変化させる異能であることから「肉体が溶ける」という事象が燁子の異能力への制裁を表していた。国木田の手帳は国木田から分離することで無力となったし、国木田の理想が生まれいづる胸に刀は突き刺さった。そして谷崎には目に制裁が、賢治には手首から全身にかけての制裁が加わり、それぞれ異能に対する裁きとしての表現が読み取れる。
異能力者を罪だと考えて、彼らの異能への裁きを下している状況だと考えられるかな。それが現時点での神人を操るドスくんの狙いということになりそう。

裁きを終えた人々の肉体と魂がどこへ運ばれるかわからないが、最後の審判の前に人々が復活することを約束されているのなら、そのための待機場所へと運ばれたのかもしれない。(あいかわらずよくわからない妄想でごめんなさい)

■女子という生き物

文ストに出てくる女の子って結構な数の子が、好きという感情を行動原理にしている。モンゴメリとか樋口とか燁子とか特にね。以前はそのことがあんまり気に入らなくて、男はどうした男はー!とか不平等に感じていたし、女だって恋だけのために生きてないし、苦しめてばかりならあんまり恋させないでやってくれ…と結構ネガティブに感じていた。率直に言えば、全然恋しない男性(特に横浜勢)とすぐに恋する女性という不均衡が差別的に感じられて少し辛いなあという感覚があった。

だけどある時、描かれている主題は「片思いの葛藤」じゃなくて「愛の深さ」だったのかもしれないとふと気づいたのよ。アニメ61話がきっかけだったかなあと思うんだけど。
女子が悩まなければならないのは、どうしたら恋を成就させられるのかというベクトルの葛藤ではなくて、どうしたら本当の意味で人を愛することができるのかというベクトルの葛藤なのかもしれない。
そして愛とは純度が高まれば高まるほど自己犠牲的になっていくものであって、ドストエフスキーが描く女性像には「愛し」「身を投げ」「泣き」「叫ぶ」傾向があるというロシアでの研究結果からも読み取れるように、女性は愛のために自身の身を投げようとするある種本能的なものを持っていて、文学もそれを描いてきたということなのよね。そして文ストの恋する女の子たちにもその傾向はあって、モンゴメリも燁子も樋口もいつも自分の身を投げてきた。
だけどそういう愛し方って現代の女性が疎遠になっている愛し方でもあるような気がして。承認欲求のためだったり、寂しさを満たすためだったり、見栄や安心感のためだったり、そういうのに突き動かされている人が増えてきた。あるいは自己実現の手段として、付き合うことや結婚というものを捉えていたり。こういうの書いてる私も全然人のこと言えないんだけど、人を愛することって本当はどういうことなんだっけ?と立ち止まって考える機会を文ストは与えてくれているのかもしれないなあと近頃感じている。

そして今月号のモンゴメリと鏡花ちゃんのやりとり、目線や動きといった言葉にはできなかった部分のコミュニケーション含めて、ふたりはそこを探り合っていたような感じもするよね。
敦の気持ちを気にかけるモンゴメリの想いの深さから鏡花がなにかを感じ取ったかなあと。この三人の関係性が少しだけ、小さく一歩進んだのかもしれない…?

■観客に紛れた動物を捕獲せよ

いやだ。ドスくんの本命、敦くんだったじゃない。
ドスくんって何者なの!?っていう問いにずいぶん長いこと主眼が置かれてきたけど、ここに来て改めて、敦くんって何者なの!?という問いが同じくらいの重さを持っていることに気づかされる。

もともと敦くんは生け捕りのターゲットにされてきたし、設立秘話の天使事件の反復として五衰事件が発生しているという前提に立てば、ドスくんの最終目的が「敦(夏目)の生け捕り」であることは当然の帰結なのだが、敦あるいは夏目の何がそんなに特別なのかが気になってくるところ。

設立秘話の演劇は、天界から派遣されたたった一人の本物の天使が、堕天使たちをひとりひとり殺していくというストーリーだった。この部分は神人が天人として、異能力者をひとりひとり殺していく今の状況と一致しているように思う。
しかし演劇では、天使による裁きは詐称であり、仲間内による自作自演だったことが発覚した。この設定を今の話の流れに当てはめるなら、神人とは異能力者たちを裁くことのできる天使ではなく、偽りの天使だということになる。
そして設立秘話の場合、本物の天使は観客の中にいた。本物の天使は後に捕らわれて舞台上に上げられた夏目であったが、今の本誌ではそれが敦だということになりそう。
「異能者は罪だ」「彼らに死という救済を」というドスくんの今までのフレーズは「天使による裁きの詐称」を意味している部分なのかなと思うのだけど、裁きの権限を持つ天使や神など本当はどこにも存在せず、これらの言葉と一連の事件は、単に敦をおびき出すための口実と罠であったともいえそう。

夏目と敦は「観客」という言葉が意味するように、メタ的な視点を持つ存在であり、物語の外側に存在することができるのではないか。であるならば、敦と夏目は天界へとアクセスできる人物であるというのが、今のところ導き出せる順当な答えかなと考えている。すなわち、物語の書き手サイドに侵食する力を持っているのかなあと。
このことは先日書いたポストモダンの「動物化」の話とも繋がっているだろうし、変身する異能を持つ人物が白紙の本への道標になっていることの理由とも繋がっていると思うのよね。
設立秘話の演劇をもう一度振り返りながら、今の状況を捉えてみる、そこからドスくんの目的を考えてみる、というのが今月の重点項目になる気がしています。

ということで、敦とは本物の天使なのだから神人による裁きを下す必要性がそもそもない、それゆえに助けの手を差し伸べてあげるに値する人物であったからキラキラドスくんが現れた、という捉え方もできそうね。
もしかしたら、敦が味方だと思っていた横浜の人たちが実は悪サイドで、ドスくんは生け捕りにして敦を連れ去ることで、彼を悪から守ろうとしている可能性もちょっとはあったりするのかな。

割と話の核心にだいぶ近いところに迫ってきているので、物語もいよいよクライマックスか。どきどきはらはらしながらも巨大インパクトには十全に備えましょうね。

■24.09.11追記

今月の追記では、ドスくんは何をしようとしているのか?敦は何が特別なのか?という問いについて、これまでに与えられた情報を組み立てながら考えていこうと思います。そのためにも設立秘話の確認は欠かせませんのでまずはそこからいきましょう!

■設立秘話との反復

以前も書いたように、天使事件と五衰事件は反復している事件だと考えられます。

福地による「海老」の犯行に終止符が打たれ、今は五衰事件の「鯛」の犯行に話が移っている状態だと思います。
改めて反復を整理しておきましょう。

一連の事件の特徴としてこんな共通点があります。
①メタ次元にいる天使や神による裁きが予告される(例:Vの予告の手紙、天人に降る死相、異能者という罪に死を)
②予告どおりに裁きが行われるが、それは見せ掛けの裁きである
③メタ次元にいる天使や神は実在せず、事件は劇中人物による自作自演である
④見せ掛けの裁きの裏に、本当の目的が隠されている
⑤本当の目的は海老と鯛に分かれている。鯛の首謀者はVおよびドスくん。

これらの事件の構造は、演劇の中のこの台詞に集約されています。

私たち天使は、いえ、翼を奪われ地上に堕とされた元天使は、たったいま天界にいる本物の天使によってひとりひとり殺されていくのだわ!

馬鹿馬鹿しい、執行人が天使であれば我々を殺すなど造作もないこと。ただラッパを吹けばいい。物理的手段で殺していく理由などない。これは天使の粛清に見せかけたこの中の誰かによる連続殺人事件だ。

アニメ文豪ストレイドッグス39話より

この構造をもとにして考えてみると、ドスくんが「罪である異能者に死を」と吹聴しているのは事件のための煽り文句だったということになります。
いわば「演劇をまわすための演目」として観客を楽しませるために事件を装っているともいえそうです。だとしたら、ドスくんの本当の目的は何なのでしょうか?

■劇場に住まうひとりの異能者

そんな彼等の目的は、劇場の中に住まうというある異能者を見つけ出すことだった。
(中略)
たった一人の異能者だけが、彼らの罪を赦すことのできる存在だったからだ。

文豪ストレイドッグス 探偵社設立秘話

設立秘話の演劇では、元天使たちは殺人事件に巻き込まれながらも劇場に住まうというある異能者を見つけ出して救済してもらうことを望んでいました。
「劇場に住まう異能者」という言葉は劇場のどこかに異能者が潜んでいることを意味しているといえます。また乱歩が言ったように「天使とは観客のこと」ですから、観客席に座っていた異能者こそが救済の天使であり、それらの帰結として異能者であった夏目が舞台上に捕らえられたのではないかと考えられます。

乱歩が言ったように「V=天人五衰」なのであれば、天人五衰の目的も天使事件のときと同じく「異能者の捕獲」であり、そのさらに奥の目的として、演劇で描かれた「元天使たちの救済」がいまのところ目的として有力なのではないでしょうか。天使事件ではそのターゲットが夏目でしたが、五衰事件ではそれが敦になったと予想しています。

■文ストに登場する史実の作品

夏目と敦には「動物に変身する」という共通点だけでなく、「史実の作品が登場する」という共通点があります。以前にこちらの考察で触れています。

文ストにこれまで登場した史実の作品は二つだけです。
一つが、敦がギルド戦のときに引用した『光と風と夢』。史実の中島敦の著作ですね。
もう一つが、晩香堂の額縁に飾られている「義理をかく、人情をかく、恥をかく」という言葉。『吾輩は猫である』の一節であり、晩香堂の額縁には夏目漱石のサインが入っていたので、夏目自身が書いたものと思われます。
となるとこの二人にはメタ次元の記憶があるということになるのではないでしょうか。

文スト世界の中に文豪としての彼らは存在していないので、文豪としての自分自身をどこか別の世界で知覚した経験があると考えなければ辻褄が合いません。
敦は孤児院の図書館で読んだある本に『光と風と夢』の一節が書かれていたと言っていますが、なぜ中島敦の著作が文スト世界の図書館に紛れ込んでいたのか気になりますよね。あるいは「図書館で読んだ」という昔の記憶が本当に文スト世界の中の記憶だったのかがそもそも怪しいという疑いも生まれます。メタ次元の別世界で読んだにも関わらず、記憶がごちゃまぜになっているのかもしれません。

夏目は万物を見通す目があり、事件のいきさつがほぼ全て見えている。さらには史実の作品を自分のものとして認知していることからメタ次元の中でも「作者サイド」に近いところにいると考えられます。
一方で敦は、『光と風と夢』の作者が誰かを思い出せなかったり、物語の展開に右往左往している様子から見てメタ次元の中でも「読者サイド」に近いところにいると言えます。つまり観客席にいるということでもあります。

■白紙の本による改変が効かない

敦が観客であることを示すもう一つの要素として「敦には白紙の文学書による改変が効かない」という点があります。はっきりとした証拠があるわけではなく、不楽本座の描写から見る限り…ですが、敦は不楽本座で何が起こったのか理解していませんでした。同じようにその場にいなかった賢治は、すぐに状況を理解していたけれど、敦だけ困惑していた。白紙の文学書には記憶を改竄する力がありますが、敦の記憶だけ改竄されなかったと推測できます。
変わった言い方に聞こえるかもしれませんが、敦だけ「台本の変更が反映されなかった」ということになります。つまり彼は演者ではない可能性がある。どちらかといえば巻き込まれている観客であり、この後お話するように「ゲームプレイヤー」の位置にいる人物だと考えてみるのが面白いかなと思っています。

■天界・演劇・観客

話を進める前に、重要なことなので改めて全体像を俯瞰しておきましょう。
設立秘話の演劇で描かれたように演者たちはもともと天界にいた天使でしたが、翼を奪われ地に堕とされました。
このことは文ストそのものの暗喩になっていて、文ストとは天界にいた文豪たちから翼をもぎ取り、劇中で人間として生きてもらっている物語だといえます。
異能者たちが天界から劇中の地上に堕とされた元天使であることは、アニメ1期のOPで太宰が天から地に落ちるシーンでも表現されています。

本来の我々の世界では、天界にいる文豪が我々に影響を与えられても我々は天界の文豪に影響を与えられないという意味で影響の向きは一方向であり、多少語弊があるかもしれませんが、天界の文豪が加害者、観客の我々が被害者だといえます。

本来の姿

しかし、地に堕とされて劇中に閉じ込められた文豪たちは、影響の向きが反対となり、我々が加害者、文豪が被害者となります。つまり、設立秘話のように被害と加害が逆転するという現象が起こっています。

文豪ストレイドッグスの姿

劇中に堕とされてしまった文豪はもはや堕天使として罪を背負ってしまったため、罪の赦しがない限り、再び天界に戻ることができません。そのために劇中の文豪は、彼等を救済してくれる「ある異能者」を探し求めているということになります。

では、そもそも彼らを堕としたのは誰なのか。そして彼等に赦しを与えられるのは一体誰なのか。

主体性を持って何かを為せるのは、観客でしかあり得ないはずです。「文豪による舞いが見たい!」と思い立って彼等を劇中に閉じ込めるのも、「もう舞いは十分見たから帰っていいよ」と赦してあげるのも観客の位置にいる人なのではないでしょうか。

だとすれば、観客とは何を意味するのか。もちろんメタ的な意味でそれは原作者であり、我々読者ではあるのですが、文スト世界の観客としてもう一つの階層を想定してみる必要がありそうです。

■ゲームプレイヤー

文スト世界の観客というのは、中島敦のことを指している。それがこの考察の結論です。しかしその中島敦という人物は、文豪の中島敦のことではない。一般人の「中島敦」という名の普通の青年が、文スト世界に紛れ込んでいる、というのが個人的な結論です。「中島敦」というキャラクターを選択してゲームをプレイしているプレイヤーが中島敦の正体なのだというほうがわかりやすいでしょうか。だから彼は、天界から落ちた元天使(文豪)ではない。最初から観客でしかなかった。
この仮説では、文スト世界のひとつ上の階層に、一般人の中島敦が生きている別の世界線があるという前提に立っています。

中島敦の異能力は、ゲームをプレイする際に付与されたものだとすれば説明がつくでしょう。その異能力が、再生する不死の異能力であることは、ゲームのプレイヤーが(メタ次元に本体があるために)ゲームの中で真に死ぬことがないということを暗に伝えているものだともいえます。

だから、閉じ込められた文豪たちに「もう舞いを終わりにして天界に帰ってもいいよ」と言うことができるのは、プレイヤーの中島敦だけなのではないか。それはつまり、中島敦がゲームのスイッチを切るときのことであり、すなわち「文豪ストレイドッグスの世界の中島敦」と決別する瞬間なのではないか。
もっと平たく言えば、中島敦が、文ストの敦としての自分を殺すという決断をしない限り、元天使たちは天界に帰れないということでもあるように思います。

しかしおそらく敦は、死にたくないと言うのでしょう。自分にとっての唯一無二の居場所であった世界を、自分の手で消すなんてことはそう簡単にはできません。あるいは、現実の世界に居場所がなかったからゲームの世界に潜り込んだのだとしたら、ゲームの世界から出るのは恐ろしい気持ちがするものです。その叫びは、55min.で異能生命体として生き続けたかったガブが「死にたくない」と願ったのと同質の叫びになるような気もします。

かなり突拍子もない仮説を立ててしまいましたが、敦が元天使たちを救済する力を持っている「観客」なのだとしたら、敦とは他の登場人物とは根本的に違う性質を持った異質な存在なのだと思います。

■白紙の文学書の「真の効力」

とはいえ、中島敦の意識が文スト世界に閉じ込められてしまっている以上、外部からスイッチを切るようなメタ的な方法では世界を終わらせられそうにありません。
そのために必要なのが、白紙の文学書だという可能性があります。
文スト世界のスイッチの切り替えの手法として「被害と加害の逆転」というのがあると思います。「被害と加害の逆転」というのがスイッチの役割を果たしていることは、設立秘話の演劇で一番わかりやすく描かれている気がします。

演劇でははじめ、脚本家の倉橋が書いた台本通りに演劇が進みました。どんな殺人が起ころうともそれは「台本通りのこと」でしかなかったのです。すべては演目でした。
しかし、劇の途中で台本に予定されていないことが起こります。村上青年による自作自演です。もともとあった台本が、劇中のキャラ自身によって書き換えられ、改変されるという出来事が起こりました。それを契機に「被害と加害が逆転」します。
五衰事件の不楽本座でもまったく同じことが起こりました。不楽本座は演劇でない以上、台本は文スト世界そのものの台本です。天人五衰が白紙の文学書を用いて台本を書き換えた結果、天人と探偵社の被害と加害の関係性は入れ替わりました。

この「劇中人物による台本書き換え⇒天使と人間の被害加害の逆転」は文スト世界そのものにも応用される可能性があります。白紙の文学書になにかを書けば、人間として生きている元天使たちは再び天界に帰り、天使として生きている観客は再び人間に戻る、つまり本来の被害と加害の関係性に戻れるのではないか。作中人物が自らの手で物語を完結させて外の世界に出る、というのはポオの異能とも共通している仕組みです。

このような感じで、文スト世界の幕を下ろすためにドスくんは白紙の文学書と敦を必要としているのかもしれないなと考えています。

すごい長い考察を書いてしまいましたが、これはもう私の総決算ともいえるような考察です。今までの情報を総結集させて導き出した渾身の一本!
なのですが。
次回の本誌で一体どれだけズタボロに攻撃され崩れ去っていくのか…
次の119話は単行本26巻の最終話にあたる部分だと思いますので、単行本最後の話といえば…皆様もうわかりますよね…「ぎゃー!なにこれどういうことー!!!」が待っている回になるのが通例ですから、覚悟して挑みましょうね~~〜!


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