【本誌120話】駆り立てるもの 感想&考察
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※ヤングエース2024年12月号のネタバレを含みます。
24.11.01感想
おおお恵みのせせらぎよ…!!
濁流と激流の狭間にもたらされたひとときの安らぎよ…!!
これでようやく心静かとなりて、かすかな声たちに耳を澄ますことができようぞ。
■芥川は非在なりき
みなさまは生まれ変わったやつがれに対してどんな感情をお持ちでしょうか。今月号を読んで私はかなり思うところがありました。舞い上がっていた先月のテンションはすっかり落ち着き、芥川に与えられた難しい状況に頭を抱えています。
この芥川を本当に芥川と言っていいのだろうか?
この人を本当に英雄と認めていいのだろうか?
芥川が獲得した「本当の強さ」のように見えるものは、獲得するにあたってなにひとつ葛藤を必要としなかったし、今の芥川は彼の過去の何にも根差していない。
他者から「光」の衣を着せられただけの、内側がおおよそ空洞の英雄ではなかろうか。もちろんその空洞にブラムの願いが満ちている限り、芥川の選択や行動には確かな愛と温もりがある。しかし芥川自身はといえば或る種、器のようなものとして騎士の動きを取らされているだけである。
他者から何かを流し込められて強制的に変容させられた自己というのは本当の自己なのか。己の中にある感情や経験を総動員して己の力のみで葛藤した先にある自己だけが本当の自己なのだろうか。芥川はおそらく自分から望んで変容したわけではないがそれでも変容してしまった自己を受容しなければならないのか。
他者から想いを託されて変容することは、本来の自分を喪失するということとセットになっている。
その喪失を受け入れるべきか、受け入れざるべきか。
たとえ本人が受け入れたとして、周囲の人間や観客はどこまでその変容を信じられるのか。
芥川と福地は似たような境遇に晒されている。
どちらも本人の意志とは無関係に操られている。
操られているという事実がどちらも変わらないのであれば、どちらに対しても同じように評価するべきなのかもしれない。
ドスくんは駄目でブラムならいい、福地は可哀想だけど芥川は祝福する、そんな評価の仕方はどこか公平性を欠いているし、固定概念の泥沼の中で最もらしいことを言っているにすぎないような気もする。
どちらも自己の意識を喪失し他者の傀儡となっているのであれば、どれだけ見た目上すぐれた変化のように見えたとしても、実は素直に喜べるようなことではないのかもしれない。
太宰が芥川に触れて吸血種の異能が解かれるとしたら、本当の強さを持たない芥川へと「退行」することだってあり得る。我々はその道を期待し望むべきだろうか。
獲得したように見える「本当の強さ」はやはり洗脳にすぎずどこまでも偽物なのだろうか。
太宰は芥川に触れることで自分が芥川にかけた呪いをもう一度呼び覚まそうとするだろうか。
あるいは、樋口や銀はこの芥川を見て何を想うのだろう。
樋口は芥川の何が好きだったのか。銀との思い出はどこへ行ってしまうのか。
「本当の強さ」と引き換えに自己を失ったのだとしたら、それでも敦はそのことを良いことだと評価するだろうか。
本当の自分自身であることを重視すべきか、本当の自分でなかったとしても善であることを重視すべきか、今の芥川はそれを問いかけているような気がする。
結構重ためな問いだなあと今月読んで感じたのでやつがれの先行きは相当気になるし、私自身はまだ全然答えを出せないでいる。
(すごい余談だけど今日夢を見たんです。夢の中のヤンエ本誌にはあとがきがあってそこに「芥川は非在なりき」って書いてありました。お告げ?と思ったのでタイトルにしました。深い意味はありません。)
■事件起こし屋さん vs 世界救い屋さん
結局敦くんは連れていかんのかーい!
敦を生け捕りにすれば事がすんなり進むというような単純な話ではないのかもしれない。
ドスくんはなにかの瞬間を待っているのだろうか。
数百年以上生きていてなお、いまだに世界を征服もせず、白紙の本も手に入らず、異能者も抹消できていないことがかなり滑稽に思えるので、ドスくんは事件を起こすことを純粋に目的としていて、トリックスターのような役を演じ続けているのかもしれないなあと感じることもあり。
しかし一方で、DAで見られたような罪を雪ぐという目的や天界へと戻りたい元天使の話、キリストへのこだわりなどから想定すると救世主としての役も演じていそうであり。
事件を起こす人という像と、世界を救う人という像のふたつを往ったり来たりするのはいつものことなのだが、今回も結局どっちなの?となるターンでした。前回は救世主くんだったのに今回はすっかりルシファーくんになりおって。
もうあれね、シグマくんの言うこと以外なにひとつ信じるもんか!!のスタンスがいまは一番いいのかもしれない。信じるには多少不安が残る相手ではあるが、一番まともそうなのは確かだ。
■上位次元からこんにちは
この漫画、むきむきマッチョの脳筋をバカにしているな???燁子が虐めてすぐ壊れちゃった十七人の世界悪のひとりジャックギレットもなんかゴリマッチョだった気がする。
さて、ドスくんが上位次元からこんにちはを実演してくれたのでだいぶわかりやすかったんだけど、紙の上のマッチョくんの胸元に突き刺さるナイフが村上青年が舞台上で刺されたシーンを彷彿とさせる感じでしたよね。
演劇も「見えない天使」が舞台上の村上青年を刺したことになっていて、突然どこからともなく剣が現れて血が流れてるような演出でした。
ドスくん、結構これにこだわってるっぽいですよね。「上位次元からの裁き」に見せかけることに。
裁きが剣によって為されるのは聖書所以かな?神は人々に罰を与えるときに剣をもって裁くという話は聖書に結構ある気が。(主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行なわれる。主に殺される者は多い [イザヤ書]など)
ところで上位次元を持ち出すとやはり因果律は壊れるのかな?同じ次元の中であれば原因と結果があるけれど、上位次元からの働きかけだと原因が知覚できないから結果だけが立ち現れるように見えるということでもあって。下位次元の人からみたら、因果律を超えているように見えている?
白紙の本は因果整合性を求める。しかしシグマの誕生は因果整合性が破綻している。つまり結果だけが文スト世界に立ち現れているように見えている。ということは?シグマくんも上位次元からこんにちはしてきた系だったり??
色んな情報が明らかになってきてあれこれと妄想が無限に膨らみますね~!
ところで「駆り立てるもの」とは。
敦くんにとってはやはり今も変わらずずっと恐怖心なのだろうか。やつがれはブラムの想いを託されている。社長は友を愚弄された怒りを抱えている。みんなそれぞれに別の理由によって駆り立てられていくのでしょうかね。
社長が思ったよりもずいぶんと早く立ち直ってて素敵。かつて朋友だった存在の悲惨な姿を目前にして、感情を押し殺しながらも懸命に心を奮い立たせてるのだと思うとすこぶるかっこいいぞ社長。
冒頭のカラーページは久々にドスくんがいなくていよいよ流れが変わりそうで期待感が感じられるわね。ふたりともとても力強くて、やっぱり文ストの戦いの最後はこのふたりが飾るんだなっていう嬉しさがある。
120話が27巻の冒頭に入る感じになりそうだからやっぱり26巻は119話までが収録されるのかな?
私もそろそろ単行本用の考察記事をまとめなければ~!
24.11.20追記
今月のカラーページにあった「我我に武器を執らしめるものは~」って言葉の原典を発見!芥川先生の言葉だったようです。
さて、今月の追記は悩みましてですね。結局自分の書きたいことは芥川の話なんだけど、でも今月もう問題提起の内容は書いたし、まだこの話するの?ってなりそうだなあと思いつつ、でもどうしても私自身はそこから抜け出せなくて。くどいけど執拗に書きたいだけ書くことにします。
今回の芥川の件って、ブラムの想いが託されていなければ、こんなに難しい問いにはなっていなかったと思うんです。たとえ「悪」だとしても「悪」が芥川を芥川たらしめるのであれば、迷わずに「悪」を選択してもいいと思う。それくらい本来は簡単な話なんだけど、今回の場合、天秤の上に「亡きブラムの想い」が乗っちゃってる。だから最終的に「人生の意味」という視点を持ち出さないといけないくらい重たい話になっちゃってる感じがしてます。
芥川の選択によって、ブラムの生きた意味が変わってきてしまうということでもあって。
託した思いが受け継がれなかったとき、死んでしまった人の生は一体なんのためにあったのだろうか、ということを考えないといけない。
例えば同じような土俵の話に、福地が部下から託された想いを叶えることで虫けらのごとき死に意味を与えようとしてきたこととか、もし太宰が織田作の遺志を継がずに人を救うことを約束しなかったら織田作の死は無意味なものになっていたかもしれないとか、そういう話があったりする。文ストにおいて死というのは生きるものたちによって意味を与えられてきたはずなんです。
そしてそれは福地の想いを託された福沢にももちろん当てはまる話で、福地の生きた意味を決めるもの、あるいは福地の死になにかしらの価値を与えるものは福沢なのではないかなと。
しかし今はドスくんによって「意味」や「価値」を横取りされてしまっている。だからドスくんから奪い返す、それは別に肉体をとか魂をとかではなくて、意味を与える主体としての立場を奪い返すことで、福沢はようやく福地を救済できるのではないかなと感じています。
同じように、ブラムの想いを受け継ぐもの、ブラムの生きた意味を残していくものがいないとやっぱりとても悲しいなって私は思う。だから芥川が受け継いでくれたことが、ブラムを愛するものの視点からいえば、とても救われた気持ちになったのです。だけど今のままでは、芥川の自分らしさが損なわれて、それを悲しいと思う人たちもたくさんいる。
このえげつない葛藤…!!
今月は割とずっとこれで苦しんでいるし、相互さんとお話したりWaveboxの返信書いたりしてるときにも何度もチラついて、全然苦しみから抜け出せません。
ということで書き出すことで少しスッキリさせようという魂胆です。(まだ書くんかい)
本誌に直結する話はちょっとこの辺にして、今回の問いを少し一般化させて考えてみようと思います。
今回の問いって、生きることの目的をどこに置くのか、という話でもあるのかなあという気がしまして。対立構造としては「自分らしさ vs 他者の想い」って感じですかね?他者の想いを受け継ぐためには自分らしさを犠牲にしなければならないし、自分らしさを優先するなら他者を犠牲にしなければいけない、みたいな。
生きる意味を「自分らしさを発揮すること」に求めるのはそんなに変なことではないと思うし、自己表現をして自らの魂を輝かせる、芸術は爆発だー!的な部分に生きることの真髄を見出すことは結構よくありそうですよね。
その場合、自分色を輝かせていること自体が生の営みの美しさなのだから、輝きの色が何色だろうと本質的には関係なくて、赤色でも黒色でも全然良いはず。
それから、自分らしさを獲得するという「過程」そのものの中に生きる意味を求めることもできたりするのかな?例えばそれは自分を縛り付けるもの(過去など)からの脱却だったり、真の自己の獲得へ向けて悩み抗うという苦しみそのものが生きることなのだ!っていうのも割とある。敦くんとか織田作とかはそういうところに生きることの真髄を見出していたような感じがしますかね?
だけど「自分らしさ」という部分に生きることの意味や喜びを置いている世界は、愛や共感など他者とのつながりと少しかけ離れた世界であるというのもなんか事実としてありそうで。
大切な人を守るというのは必ずしも自己の獲得ではないし、託された想いをつなぐということも自分らしさとはおそらく無関係な感じがします。
どちらかといえば、自分の色を少しずつ和らげていく、他者の色と自分の色を混ぜ合わせていく作業に近いのではないだろうか。
そうやって色を混ぜ合わせることに喜びを感じた人たちには「あの人がいるからこそ生きたい」って思う気持ちが芽生えるものであって、「大切に思う人のため」という部分に生きる意味を置いている人もたくさんいる。
そんな感じの「生きる意味のグラデーション」みたいなものがある中で、芥川が生きる意味を置く場所というのはどこになるのだろう?と考えたりしています。
芥川は「太宰さんっ!」ってよく言うけど、「太宰さんからの承認を!」なので「自分のことを認めてほしい」が主軸であって、生きる理由は「愛されたい」という自分のためだったのかもしれない。
あるいは、自己表現に生きる意味を求めたりもしていただろうか。敦への反発心は「染まらない自分」という頑なな自己を維持するために使われて、反発すればするほど自分らしさを際立たせていく、それがすなわち芥川なりの自己表現であり、己らしさの部分に生の力強さを感じ取ったりもしただろうか。
だけど今の芥川の生きる意味は、これまでの芥川の生きる意味とはまるでかけ離れている。姫と庶のために戦う姿は、生きる意味の「対象」がおかしいだけじゃなくて、生きる意味の「置き場」も実は今までとちょっと違うのかもしれない。
今のやつがれは白いペンキをバケツからバシャってかけられたような感じだけど、本来は自らの「混ざり合っていく意志」によって黒色を和らげていくべきで、そういうのが理想だというのは頭ではみんなわかってると思うんですけどね。
でも人と混ざり合っていくことは、ひとりで自分らしくいることよりもずっとずっと難しいことだから。
染まり切っていた黒に自分の意志で白を混ぜ込むことが難しいなら、いっそのこと全部白に染めてしまって、そこからちょっとずつ自分を取り戻す形で黒を獲得して、最後いい塩梅になるっていう、これはそういう戦略なのかな?
芥川と敦の関係性はガチッとしたつかみどころがなくて考察書くのいつも難しいですけど、しばらくのあいだ堪能できそうで嬉しいです。