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「うまいかまずいか知らんけど話のタネになるし食うてみよう」という精神

はじめに

私は落語が好きなのですが、その中で私の心の支えになっていることがあります。

それは「うまいかまずいか知らんけど話のタネになるし食うてみよう」というフレーズです。

それについてコラムを書いてみようと思います。

天狗刺し

私がその考えを知ったのは『天狗刺し』という噺です。
参考に以下の動画を貼っておきます。

タイトルの言葉は噺の中心でもなんでもなく、ちょっとしたフレーズです。
大きな発見のある考えでもありませんし、よく使われるような考えですが、なぜか私の心に刻まれたのです。

「無駄足」を恐れる

私と同世代世代以降にある傾向だと考えるのですが、私は特に「無駄足」というものを嫌っていました。

インターネットで情報があふれたことで、「正しいやり方を知りたい」「正しい情報を知りたい」「正しい体験がしたい」という考えが根底にあったのです。

それは今でも私にあります。旅行や買い物の際にはよく調べます。

一方で、「無駄足をする」ということを恐れることで機会を失ってしまうこと、これも恐れるべきものなのではないかと思いました。
「失敗を体験する」ことも人生には必要なのではないかと思ったのです。

「知らんけど」の意味

「うまいかまずいかまずいか知らんけど話のタネになるし食うてみよう」というのは私の関西弁感ではすこしかっこいい言い方だと思っています。

「知らんけど」というニュアンスがここでは上品になります。

「知らんけど」は関西人以外にも通じる「私はこの発言には責任を持たない」という意味で使われますが、自己の感情や受け取り方に使う場合は、「私はこの観点で評価は行わない」という意味になります。

「このギタリストはうまいか下手かは知らんけど私は好き」や、「この子は友達が多いか知らんけど私は嫌いや」という風に使います。

この場合の「知らんけど」という言葉には、「私は気にしていない」というニュアンスを含んでいます。

なので、「私はこういった(一般的な)評価基準を知った上で、それ自体は私にとって重要ではなく、別の基準で私はこう思っている」を示した用法で、「知らんけど」という言葉が使われるのです。

「知らんけど」「話のタネに」から読み取れる人生の楽しみ方

「うまいかまずいか知らんけど話のタネになるし食うてみよう」という言葉は、「うまいかまずいか」という一般的な評価を自分で棚にあげた上で、「話のタネに」という評価基準で「食べてみよう」と思っています。

これは実に関西人的で雅だと考えたのです。

人が決めた価値基準は「知らんけど」、私は食べてみてそれを「話のタネにしてやろう」という考えは、自分の成功や失敗をすべて自分の経験にして、自分の強みとして捉えられる、そのような強さを感じたのでした。

鴉天狗を食べる気持ちで

これが「鴉天狗を食べる気持ち」ということわざです。(私が今考えました)

鴉天狗を食べることにはメリットがあると思います。

鴉天狗が不味かった場合、それは「仕方ないな」と思うことができます。
しかし、鴉天狗が美味しかった場合は、それは自分に素晴らしい体験として心に残るのです。

思えば私は鴉天狗を食べる気持ちで営業からエンジニアに転身しました。
その後も鴉天狗を食べる気持ちでテスト設計コンテストに出場しました。
鴉天狗を食べる気持ちでJapan Test Communityに参加しました。

これらは元々「知らんけど」という気持ちで、でも自分の人生経験として参加したものです。
そして、今でも印象に残る人生体験です。

おわりに

鴉天狗を食べる気持ちというのは、様々な人が似たようなことを言っていますし、特別な考えでもありません。

ただ、自分なりに刺さる言葉の選び方やコンテキストがあります。

そういったことに思いを巡らすと、自分の人生が少しは意味あるものだと思えてきたので、文章にしてみました。

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