「かぐや姫の物語」における、女の本当の生き辛さ

・女を期待されるということ

 ジブリ映画「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫は、私達がよく知る昔話をベースにしながら、現代に生きる女性として意識されている事は間違いありません。
かぐや姫は思春期を迎える頃に生まれ育った田舎を離れ、色々と教養を学ぶために都へと連れて行かれます。
しかし、そこで良かれと思って施される教養は姫にとって抑圧を意味していました。
騒ぎまわる事を禁止され、嫌な勉強を強制され、お歯黒をされ笑うことを封じられます…何故なら、それが「良い女」の条件なのですから。
しかし、これは本来は野山を駆け、気ままに同年代の子供達と遊ぶことが好きな姫にとっては、自分自身を捨てろ!と言われるに等しい苦痛でしょう。
かぐや姫は教育係に向かって「高貴な姫君は、人ではないのね」と言います。姫の主観における高貴な姫君とは、女?という型に押し込まれた人形でしかないのです。

 そして姫は成人式でお祝いされるも、姫自身は御簾の中に一人座っている事しか出来ず「私の為の宴なのに、なんやコレ?」と戸惑い、更には客の「姫って美人なんだろ?」「いや、もしかしてブスだったりw」と揶揄を受け混乱の極みに達します。
置物のように扱われ、感情を無視され、外見を品評され、姫は月に吠え怒りのデスロードを走ります。

 この時に脱げ落ちる十二単は「女として美しくあれ」という呪いのメタファーでしょう。何重にもかけられた綺麗だけど、自分の意思を覆い制限する重し。

 …と、ここまでは「現代に生きる社会不適合女の辛さ」を描いていると言えると思います。
しかしながら姫が成長し、求婚される段階に物語が進むと徐々に「姫の生き辛さの本質」が顔を出していきます。

・ぼくらはトイザらスキッズ!

 原作通り、姫は求婚者に対し結婚を諦めさせる為に「仏の御石の鉢」「蓬莱山の枝」「火ねずみの皮衣」「龍の首の五色の珠」「燕の子安貝」を要求します。
求婚者達は明らかに単なる「美しい女」を求めており、姫自身の人格や感情を見ているとは言い難い態度でした…が、しかしかぐや姫自身も、自分に寄って来る男を最初から人間として見ていません


 かぐや姫は、偽物の蓬莱の玉の枝を持ってきた車持皇子が職人から「代金を払え」と迫る職人から逃げる姿を見て笑います。その原因は、車持皇子が自身の愛を会得すべく破滅するほどの財産を投げ打った事にあるにも関わらずです。


 石上中納言が燕の子安貝を取ろうとして、高いところから落ちて死に、その知らせを受けて姫はショックを受けます。あんな難題を出しておいて、本当に取りに行ったらどうするのか?死人が出るまでナニも考えていなかったのです

 順番は前後しますが、姫が周囲を人間扱いしてない事が一番分かるエピソードが石作皇子です。
石作皇子は原作と違い、難題の代わりに愛を囁きます。

「貴女の求めているのは宝物ではなくて、あなた自身を誠実に愛してくれる真心!二人で、ここではないどこかへ行きましょう!私が貴女に捧げたいのは偽りのない愛!」、まるで00年代世界系エロゲ主人公のような事を言いながら御簾を上げる石作皇子。

しかし、石作皇子は醜女と入れ替わった姫を見て即座に求婚を取り下げてしまい、姫は泣き崩れます。この男も結局は「美しい女」が欲しいだけだったのかと…。
これは一見すると「自分の人格を無視して美のみを求めるルッキズムへのカウンター」に映りますが、その実は単なるルッキズムの醜悪なパロディに過ぎません。そもそも愛を試す為に、「醜い女」を選定する事自体が醜女の人格を踏みにじる行為ですし、そういった基準を理解出来てしまっている証でもあります。

 またコノ時の姫の行動を要約すると「自分のために無限のリソースを費やし、自分が何者であっても受け入れてくれる男を求めた」という事になります。
姫は石作皇子が醜い自分への愛を示したとしても、愛を試すことは止められないでしょう。基本的にかぐや姫、「許されない事をして、許してもらう」という試し行動でしか愛を計れず、自分から愛を作るといった行為もしないのですから。要するに姫が欲しいのは「セックスしなくても無償無条件で構ってくれるパパ」であり、姫の生き辛さは「子供でいた~い♪」に集約されます。

・かぐや姫が帰るべきは月ではなくネバーランド

 姫の主観からすれば、姫の生き辛さの原因は「自分を殺しきれず、周りの期待に沿った言動が出来ない」ということでしょう。特に自分からはナニもせずに美貌と財産を手に入れ、自動的にハイスペな求婚者が五人も現れるという、誰もが憧れるなろう系主人公になれたのに自分はそれを望めない。
それ故に姫は「私は偽物、私のせいでみんな不幸になった」と00年代世界系エロゲヒロインの如く慟哭します。化粧して綺麗な衣装を着てはいるが、周囲の望む「女」になれない自分は偽物なのだと。女としての「地位のある男と結婚する」という幸せではなく、自分自身の望む幸せを手に入れようとすると周囲とコンフリクトを起こしてしまう。
女が女としてではなく、一人の人間として生きようとするのが、この世界ではこんなにも難しいのかと。

 …と書けば分かる通り、かぐや姫は基本自分にしか興味のない個人主義者です。他者と幸せをシェアするという発想を奪われています。(だから他者の幸せを奪う=泥棒を是とする捨丸と気があったりする)

それ故に幸せを個人の中にしか求められず、自己と周囲に関する軋轢の最適化が「流される」「壊す」という二択になってしまっています。
美しく居続ける事で石作皇子と田舎で仲良く愛を育む、高貴な姫君を願う翁を悲しませてでも自分の意思を伝える…そういった他者にナニか「差し出す」「妥結する」といった発想がありません。姫の世界には自分しかいませんので、そこにあるのは「全肯定」と「全否定」の二極だけです。
そういった他者と分かち合うことが出来ない姫にとって、月に行き感情を捨てる羽目になるという結末は残念だが当然、エゴイストらしい最期といえます。


個人としてのみの幸せを追及する限り、例えかぐや姫が帝との婚約を破棄し、田舎に戻ったとしても、周囲との軋轢は避けられないでしょう。何故ならかぐや姫は他者の自我を認めて尊重出来ず、また他者との分かち合いに幸せを見出せない人間なのですから。

かぐや姫にとって最大の不幸、それは永遠に子供でいられる魔法をかけてくれるピーターパンが迎えに来なかったことだ…と結論してコノ記事を終わります。