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たつのこ 前編

あらすじ
未婚のまま中年になった寿生子。こうなったのは、父の異常な過保護にあったと恨んでいる。両親亡き後、物置から大量の乾燥タツノオトシゴを発見。その夜、タツノオトシゴの姿を借り復活する父。生前と打って変わった語り口で、自分を飼うようにすすめるが、タツノオトシゴの謎については口を割らない。ある日、父の指示に従い水族館に向かうと、父の過去を知る辻井丈治老人と息子の瑞人に出会う。異常愛の理由を彼らを通じて知り、父への感情が揺らぐ寿生子。父はまた、水族館で会う人こそ運命を変える人だと予言していた。

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 桜は散った。ゴールデンウィークまで、あと半月。世間は浮かれ気分の谷間である。私にゃ、山も谷もない。砂漠ってところか。仕事が休みの、ただの土曜日。それでも、「今日の予定」はちゃんと決めてある。物置小屋の片付け!
女ひとり、四十八歳。古い一軒家に住んでいる。四年前に母が七十五で逝き、昨年父が八十九で逝った。生まれた時からずっとこの家にいる。休日は、両親の残したものを整理することに費やされる。恋人も趣味もないから、別にいいのだ。むしろ、この片づけが終わったらどうしたらいいのだろうと、ふと恐ろしくなる。庭の隅にある物置小屋は、この家を建てた時に大工さんにつくってもらったものだ。硬くなった引き戸を開け、顔を突っ込むと、湿った土と鉄錆が混じったような懐かしい匂いがした。かくれんぼの時の匂いだ。私が外に出るのを親が嫌ったので、友だちに遊びに来てもらうことの方が多かった。叱られると閉じ込められる場所らしいが、そんなことをされた記憶はない。
 光が入るように開け放すと、空気が緩んで散った。父が最後に入ったのは、いつだろう。脚立、折り畳みのミニ台車、スコップ、とぐろを巻いたホース、黒い長靴。作り付けの棚には、工具箱、枝切り鋏、麦わら帽子、軍手の束──。ずっと長いこと足を踏み入れていなかった。かくれんぼの時代を過ぎると、中に入ることは無くなったから。庭仕事や日曜大工的なものは父の領分であったので、母も私もあえてここに入らなかった。父は内勤の会社員だったので、休日は庭に出て体を動かすのを好んだ。退職後も元気な爺さんだったのを幸いに、任せきりにしていた。父がいなくなってから、庭の草木には水をまいてやる程度だ。
「いいんだよ。お父さんは、好きでやっているんだ。寿生子(すみこ)が手に怪我でもしたら大変だ」
 九十近い爺さんが五十近いおばさんに言う言葉が、これであった。母が病んで逝ったのと違って、父はある朝ぽっくりと死んでいた。私は父が四十二歳の時に、やっと授かった一人っ子だ。過保護は度を越していた。押し入れ上段から飛び降りて遊んだだけで、骨が折れたらどうすると叱られた。あそこの道路は、事故が多いから渡ってはいけない。回り道でも必ず歩道橋を使うこと。駄菓子の添加物は体を蝕む。絶対に食べるな。中学から大学まではエスカレーター式の女子校。大人になってからも、門限厳守、結婚前に家を出ることは絶対に禁止──と、徹底的に縛られた。職場も父の口利きで大学の事務員に。コンパもデートもしたことのないまま、とうとうここまで来てしまった。母も父と共謀するように私を縛ったが、今思うに父に洗脳されていたのかも知れない。父より十(とお)も若く、師のように慕って結婚した母は、「お父さんの言うことだから」が口癖だった。
 年頃になると、見合いの話もいくつか来たが、父が納得しなかった。この時ばかりは母が、「だからって、いつまでも行かないわけには」と反撃に出たが、「こいつは、お父さんみたいに寿生子を幸せに出来そうもない」の一点張り。私の見合いなのに、釣書もちゃんと見せてくれなかった。そもそも結婚させる気があったと思えない。私のように、女の門を破らぬまま一生を終える人って、現代の日本にどのくらいいるのだろうか。案外昔より多いのかも知れない。
 子どもの時に比べて、物が増えているようだ。小ぶりな箱が棚に並んでいるので、端から開けてみると、ミニサイズの釘がぎっしり一箱。中くらいの釘もぎっしり一箱。同じく大きい釘ばかりの箱も。ネジもいろんな種類が一箱ずつ。同じくボルトとナットも。ビニールロープも、色違いで揃っている。植木鉢は、十鉢ずつ縄で束ねてあった。園芸用の支柱も大量に。ああ、そうだった。あの人は、何でもまとめ買いする人だった。未使用の物が、たくさん。お父さんたら、もう。どうしよう、これ。メルカリの会員にでもなれば捌けるのだろうが、手間が面倒だ。使いそうな分だけ少し抜いて、あとは「ご自由にお持ち下さい」とダンボールに入れて、玄関前にでも置いておくか。
 斜めに立てかけてある簀の子をどけると、茶箱が現れた。茶箱は、母の使っていた部屋にもあって、彼女は洋服入れにしていた。今は私の部屋で、雑誌入れになっている。昔はお茶屋さんで買えたのだそうだ。大きくて深いそれに比べると、半分以下のサイズだが、同じ茶印の商標がついている。「へぇ、お洒落。こんなのがあったんだ」ひとりごちながら、杉の蓋に手をかけた。防湿防虫の優等生箱だから、ちょっとまともな宝物がしまってあるのでは。
 ん? なあに、これ? トタンの内貼りの中に、またもやぎっしりと犇(ひし)めく物体が。飴色に重なり合う──。
 顔を近づける。
 ──こ、これは。もしかして、これって。
 ぎゃああああっ! 
飛び退いた拍子に、背中を棚の端にぶつけ、しばし悶絶。痛たたた。何ゆえ、どうして、いかような事情でここに。
 ──タツノオトシゴ。
タツノオトシゴが、びっしりいるわけよ? 
 怖いからいったん閉めようと、蓋に手をかける──と、裏側に封筒がビニールテープで留めてあった。茶箱にあったものの、テープが劣化して少しべたついているのは、ずいぶん前に貼ったのかも知れない。封筒の中には、小さく折りたたんだメモ用紙が一枚と、直径二センチ半くらいの丸いピンバッジが入っていた。バッジは陶器の焼き物で、向き合ってハート型をとったタツノオトシゴのデザインになっていた。薄緑の地に浮かぶ焦げ茶のタツは、落ち着いた色合いで悪くなかった。メモ用紙を開くと、角ばった右肩上がりの字が並んでいる。父の字だ。
「出来れば生のまま素揚げにするのが、いちばんである。内臓をとらぬこと」
 生のままには多すぎるから、乾燥させて保管していたのか。タツノオトシゴを……食べるために? そういう性癖があったのか。母は知っていたのか? 知っていたなら冷凍庫を使わせてあげただろう。そのほうが、解凍して素揚げに……あ、私も冷凍庫開けるから無理か。お母さん、きっと知らなかった。知らずに逝けて良かったね。どこでミイラにしたんだろう。生を素揚げにしたやつは、どこで食べたのだろう。 
 あのくそ真面目な父が。こんな冒険をしていたなんて。冒険? 変態? 
 勘弁してよ、もう。──思考、停止。
 封筒にバッジとメモをねじ込んで、タツノオトシゴのぎゅう詰めの上に放り投げると、顔を背けながら蓋を締めた。

 その夜。夢に父が出て来た。痩けた頬に眉間の縦皺。年の割に豊かな頭髪は真っ白で、後ろへ撫でつけている。生前そのままだ──が、なんか雰囲気が違う。
「寿生子、久し振りだな。お父さん、突然逝っちゃって悪かったな」
 笑っている。嬉しさよりも怒りのようなものがこみ上げてきた。文句を言おうとするのだが、口が上手く回らず、声も出ない。喉をぐるぐるうならせていると、
「あのさ。今晩はお願いがあって、このような形をとらせてもらってるわけ」
 何なんだ、この軽い口調は。本当に、父か?
「そうだよ。お父さんだ。わかりやすく生前の姿で来た」
 すごい。読まれている。父は一方的に話し始めた。
「まず先に、ここまでのことを説明しておくとね。お父さんは、死んだあと神様のところへ行って、いろいろと叱られたわけ。一番叱られたのが、寿生子を束縛し過ぎたってことでさ。君ねぇ、あんな座敷牢に囲うような育て方したら、普通グレるか精神がやられるよ。キレちゃう子だったら、鉄アレーで君をぶっ殺そうとしたかもだよ。寿生子ちゃん、よく耐えたよ。勲章ものだね。どんだけ娘に酷いことをしたのかしっかり反省しなさいって。すまなかったな、寿生子。お父さん、愛し方が大きく間違っていた」
 はあ? 今さら何言ってんの? 
「今さら……だけど、そこは死んでみないとわからないことだったんだよね。お父さんは、まだ修行中なんだ。次に生まれてくる時は、ものわかりのいい、個人の自由を尊重する人になるべくしてだな。修行が進むにつれて、精神年齢はどんどん若くなってる。次の人格にも近づいているそうだよ」
 だからこんなに軽いノリの話し方を。容姿と激しくかけ離れているし、こんなのお父さんと思えない。もう一度、声を出そうとしたが出ない。ぐぅぅ。
「大丈夫。伝わってるから。それはそうと、お願いなんだけれど」
 何が、それはそうとだよ。ほんとに反省してんのか、親父。
「ごめん。寿生子、反省してます。でね、庭の物置小屋なんだけれど」
 ええ。そこにだったら、今日入りましたとも。
「えっ、そうなの? 行ったんだ。なら、話が早いや。実はお父さんは今、あの物置の中にいる」
 怖っ。あそこに霊体として漂ってたわけ?
「違う。寿生子に見えているこの姿は、わかりやすいように一時的なもので。お父さんは修行中の身だから、今は物置小屋の中にある『ある物』として居るわけなんだよ。次の人間になれるまでは、それだ」
 長靴とか? 麦わら帽子とか?
「じゃなくて」
 スコップ? わかった、脚立だ。
「もしかして、見つけてくれてないかな」
 まさかと思うけど。
「言ってごらん」
 タツノオトシゴ。なんてね。
「ピンポーン! さすが寿生子だ。よくわかったね」
 ちょっと待って。タツノオトシゴって。お父さんがいっぱいってこと?
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ。あの一番上の真ん中にいた、ちょっと大きめの形が美しいやつだ」
 そんなの見る余裕があったと思ってんの?
「よく聞け。三日後に大雨が降って、この辺りも水浸しになる。安心しろ。床下浸水程度で、家は無事だ。だがな、物置。あそこは床下がないから、茶箱が危ない。お父さんは、水に浸かるとタツノオトシゴとして動けるようになるんだ。フリーズドライを水で戻すって感じで。海水ならいいけど、淡水はやばい。だから、避難させて欲しいんだよ。あ、ほかのオトシゴたちは、生き返ったりしないからテキトーに処理して」
 甚だしく荒唐無稽である。その後も父は、いいか、お父さんは一番上の真ん中の形が美しい……と繰り返し、時間がないからと言って去ろうとするので、脳内で必死に呼び止めた。
 お父さん!
「なんだよ、急ぐんだけど」
 あなたが、あんなものを集めて食べていたとは思いませんでした。ショックでどうにかなりそうです。こんな変わり者に私の自由を奪われ、恋愛も結婚もしないまま……。こうなったのは、私の人生が無味乾燥のまま終わるのは、あなたのせいよ! 返して! 経験するはずだった幸せを返して! あなたと違うお父さんだったら、私はどんなに充実していたか。あなたなんか、ほかのタツノオトシゴと一緒に「ご自由にお持ちください」の貼り紙をつけて、ダンボールに入れて、置いてやる!
「ごめん。ごめんよ。わかった。お父さんを見つけたら、タツノオトシゴに適した環境の水槽を用意して入れてくれ。それなら、夢じゃなくてもテレパシーで会話できる。まだ伝えたいことがあるんだ」

 翌日曜日。物置小屋の茶箱の蓋を開けた。わかっているせいか、前回より気持ち悪さは減っている。確かにそれらしきちょっと大きめのタツノオトシゴがいた。昨日私が放り込んだ封筒の下に。他のオトシゴたちは八~十センチくらいだが、こいつはもっとある。バブル時代に流行ったフクゾーのロゴマークみたいでかっこいい。私のキッズ用のスカートにも、このマークがちょこんとついていたっけ。
「お父さんですか」
 答えないところが憎らしい。つまみあげると、用意していた小皿に移し、残りのタツノオトシゴたちには蓋をして、茶箱を棚の中段に移動して去った。家に入り、タツの皿を仏壇の父の写真前に置いた。隣に並ぶ母の写真は何を思うぞ。とりあえずこのまま、放置。

 果たして予言の三日後、火曜日に大雨が降った。四月中旬にしては、激しく降ったものの、帰宅する時には止んでいた。床下浸水にはほど遠く、念のため懐中電灯を手に物置小屋を確認しに行くと、何の被害もなかった。無事帰宅出来たのは嬉しかったが、予言に翻弄されたことに、むかつく。知らなければ、ただの大雨の日で済んだ。父であるタツノオトシゴに文句のひとつも言いたい。夕食を済ませ、小難しい顔をした父の写真前の小皿に近づいた。タツノオトシゴのミイラをそっと持ち上げる。尻尾の先を握ると、ピンと立ち上がったままの姿勢で、氷点下で振り回したタオルのように、カッチカチである。金槌で砕いたら、呪われるだろうか。
 まだ伝えたいことがあるって言ってた。海水に浸ければ……。あさりの砂抜きの濃度ってわけだな。水500㏄に対し塩大さじ一杯のあれ。キッチンに行き、ステンレスのボールに塩水を張り、タツノオトシゴをそっと落とした。しばらく見つめていたが、動く気配がないのでいったん離れ、ソファーでお茶を啜っていると、
 ──お~い。寿生子ぉぉ。
 頭の中で、声が響いた。ボールに駆け寄ると、平らに浮いていたタツノオトシゴが水の中で縦になっている。ちょっと色が濃くなったようだ。
「お父さん?」
 ──遅いじゃないか。何でもっと早く塩水に浸してくれなかったんだよ」
 テレパシーのように、父の声が伝わってくる。
 ──ちょっと、この水深は……ギリだな。水槽にしてくれって言ったじゃないか。
「だって。ほんとかどうかわからないし」
 三日前の会話と違って、はっきり声に出せるのが気持ちいい。
 ──環境、悪すぎるよ。浄化装置とか珊瑚とかも用意してよ。あと専用のご飯。
「わかった。水槽とかいろいろ調べて、これからネットで頼んでおく」
 ──あ、今、面倒だな、金かかるなと思っただろう? 安いやつでいいから。いつまでもこの姿でいるわけじゃなし。
「伝えたいことがあったんじゃないの?」
 ──そうそう。封筒の中にバッジが入っていたろ?
「うん。封筒に戻して、茶箱の中に返したよ」
 ──それをだな、襟の目立つ位置につけて、今度の日曜日の午後三時前後に、新江ノ島水族館に行き、タツノオトシゴの水槽付近をうろつきなさい」
「なんで?」
 ──その日、その時間、その場所で声をかけて来る男がいる。そしたら、私は磯田信正(のぶまさ)の娘だと名乗るんだ。その人は寿生子の運命を変える男だ。だから、必ず行け。
「日曜日は、千夏(ちなつ)と会う約束が」
 ──千夏ちゃんか。何時だ?
「六時だったかな。鎌倉駅の近くのお店」
 ──充分間に合うじゃないか。問題なし! あ~良かった。場合によっては千夏ちゃんとの約束をキャンセルさせるところだった。
「強引だなあ」
「いいか、寿生子の運命を変える──」
 タツノオトシゴの口の先っちょがパクパクと動いて、顔の横のエラらしきものが膨らんだり引っ込んだりした。
「わかった。お父さんの名前言えば、いいのね。まさかフリーメイソンとかじゃないよね」
 ──それは、ない。
「その妙なやりとりする人、ほんとに来るの? 床下浸水にならなかったしさ」
 ──まだ修行が足りなかったんだよ。三日後の大雨ってのは、当たっていたろう。
「まあね。お母さん、どう思ってるかな」
 ──どうもこうもないだろう。
「だってほら、たまに見守りに来てさ、こんな状況を知ったら」
 ──あのなあ、お母さんはとっくの昔に生まれ変わってるよ。神様の話によると、ロシアの著名なマトリョーシカ作家の次男に生まれたらしい。こっちでの記憶は飛ばされちゃって、もう違う人なんだから、見守れるわけないだろ。そりゃ、お母さんだって見守りたかったと思うよ。寿生子を。お父さんだって、別に生まれ変わらなくてもいいんだ。ずっとタツノオトシゴのまま寿生子を見ていられたらさ」
 やけっぱちのように言ったあと、うう、早くお父さんの水槽と設備と食べ物を注文してくれ。このままでは苦しいとうるさいので、慌てて「タツノオトシゴの飼育方法」を検索し、アマゾンに注文して戻ると、ボールの中で縦のまま、ぐらりぐらりと揺れていた。眠ってしまったらしい。本来なら留まり珊瑚とかに尻尾を引っかけて眠るのだろう。水温管理のヒーターは、今の季節だと無くても大丈夫そうなので注文しなかったし、ろ過装置をやめて、浄化用の小石にしておいた。珊瑚は高いので、留まり木は庭の適当な枝でも切って重しをつけて沈めればいい。生餌も面倒なので、おすすめ商品の冷凍小海老にした。あなたみたいに過保護にはしないのだ。

 父が復活して四日たった。「ただいま~」と声を張りながら、水槽の前まで行く。人間の父がいた時より、ずっと明るい「ただいま」になってしまうのが不思議だ。
──おう。お帰り。無事に帰ってきてくれてお父さん、ほっとした。
 テレパシーで、応えてくれる。
「あのねぇ。そんなに帰り道危なくないから。相変わらずだなあ。ちっとも反省してないじゃない」
 ──そうだった、そうだった。ごめんちゃい。
 人間の時に比べて、なんと素直になったことよ。それにしても、次の生まれ変わりに向けての軽いノリには、いまだに妙な違和感がある。
「はい、ごはん」
 小海老を落としてやると、尖った口をゆっくりと近づけて、いきなりピューと吸いこむ。
「写真、撮っていい?」
 スマホを構えると、「待て。ポーズとるから」と、留まり木に尻尾をからめて背中を丸め、ハートの半分の形をとった。
「お父さんは、何でタツノオトシゴなんて食べてたの? 今のその姿は、タツノオトシゴの呪い?」
 ──呪いとは失礼な。タツノオトシゴをそんな目で見たら、それこそ罰があたるぞ。
小さなウツボのような目が、キョロキョロした。左右ばらばらの動きをするところがすごい。
「じゃあ、教えて。何であんなにたくさん隠してたの? ずっと食べてたの? そんなにおいしかったの? ねえ、どうして」
「うるさいなあ。どうだっていいじゃないか。とにかく明日の日曜は、絶対に水族館で指示した通りにするんだぞ」
「はぐらかさないでよ。だから、なんでタツノオトシゴを……お父さん?」
 突然寝たふりをはじめた。父はこの質問になると、いつも逃げる。

 江ノ島へは、近所のバス停から乗車して二十分で着く。新江ノ島水族館は、そこから歩いて十分くらいだ。「新」がつく前の水族館には、子どもの頃両親とよく行った。父と離れると、大きな声で呼び戻された。十九年前に「新」になった時、ひとりでふらっと行ったっけ。期待以上に見ごたえがあって、また来よう、近いからいつでも行けると思いつつその時限りになっている。父の予言は三時だったが、あてにならないので二時にはタツノオトシゴ付近にいられるように計画した。館内をゆっくり回って、間にショーとかを見学してから、タツノオトシゴ前へ行く予定。ブランチを食べて、昼前に家を出て来た。「ずいぶん早く出るんだな。ちゃんとバッジはつけたか」と興奮気味の父に手を振って。
 館内マップを手に各ゾーンを巡り、ダイバーの水中アトラクションやイルカのショーを楽しみながらも、「寿生子の運命を変える男だ」がよぎり、どうにも落ち着かない。何度も時計を見て、襟のバッジに手をやった。二時少し前になった時、心を落ち着かせようと、くらげゾーンに戻った。水族館の中で、いちばん好きなのはくらげだ。子どもの時、家族で来るとくらげの前からなかなか動かなかった。小学校三年くらいの時だったか、父とこんな会話があった。
「寿生子は、そんなにくらげが好きか。どこが好きかな?」
「いっぱい考えてそうなところ」
「ははは。くらげにはね、脳みそがないんだよ」
 あの時の衝撃は、凄かった。一生考えないまま、ただふわふわと漂っている。今はそれが羨ましい。くらげの巨大水槽を前に、ああこの中に入ってしまいたいと思う。くらげになってしまえば、タツノオトシゴの所に行かなくて済む。なんだか、どんどん不安になる。くらげ。海月。水母。なんて美しい名前だろう。タツノオトシゴ。海馬。──海馬。脳の記憶を司る場所。そうか、タツノオトシゴは、記憶なんだ。タツノオトシゴに脳ってあるのだろうか。あるとして、海馬は。海馬イン海馬。茶箱の中は、記憶たちでいっぱい。
 ──もう少し、ここで漂ってからタツノオトシゴの所へ向かおう。

 三時を二十分過ぎて、タツノオトシゴ前のうろうろに限界を感じていた。タツノオトシゴの仲間はいろんな種類がいて、父と同じ定番のやつも、仲間同士で絡まったり、細かく振動したりしていた。父のようにテレパシーを送ってこないから、つまらない。さっきから、それらしき人は現れない。カップルだの、家族連れだの、仲良しグループだの、いろいろ来るたびに、襟のバッジが見えるように不自然な動きをした。完全に怪しいおばさんである。そもそもそれらしきとはどんな感じであろうか。もしかして、もっとずっと早く来ちゃったのかもしれないし、まだまだなのかもしれない。何しろ父の予言なんだから。待てよ、運命を変えるってことは、お父さんが罪滅ぼしに私の相手を……。それなら、この前買ったあのブラウスで来たのに。
「失礼ですが、そのバッジは」
 低く少し枯れた声がした、やせ型の男性が、顔をこちらに向けて私の襟元を見つめている。品のいい……八十歳くらいの……老人が。咄嗟に返事が出来ず、私は彼を凝視した。おそらく若いころはイケメンだったであろう……。この人が? 
「あの、もしもし」
 私が黙っているので、老人はもう一度声をかけてきた。
「私……私は、磯田信正の娘です! 寿生子です」
 あわてて口にした言葉は、何かの宣言みたいになってしまう。
 彼は目をしばたくと、みるみる相好を崩し、
「信正さんの! そうですか。はああ。そうですかそうですか!」
 声が大きくなって、私の手を取ろうとし、「こりゃどうも」と引っ込めた。
 周りの視線を感じながら、私は「はい」と頷いた。
「私は、磯田信正さんの友だちです」
 彼は私の口調を少しまねて、財布から名刺を出した。
「辻井丈治」
肩書も何もない名前だけのシンプルなものだ。現役を退いたあとも元○○と過去の栄光を並べる名刺と違い、好感が持てた。
「つじい、たけはるさんとお読みするのですか」
「じょうじ、です。無理にふりがなを入れないんですよ。そのほうがお友だちになる時、話のきっかけになりますから」
 茶目っ気を含んだ瞳は、色素が薄めだ。
「少し話せませんか」
同時に発した言葉に、私たちは噴き出してしまい、一気に和んだ感じになった。館内のカフェは混みあっていたので、それぞれアイスコーヒーをテイクアウトしてオーシャンデッキへ出た。ここのテーブルも塞がっていたが、海に面してずらりと並ぶフェンス沿いのベンチは、人もまばらで丁度よい環境だった。
「今日は暖かくて良い日になりましたね。海風が心地いい。四月半ばと言っても、先日なんてすごく寒い日がありましたからね。なに、こっちは隠居の身だから天気の悪い日は家でじっとしてればいいのですがね」
 辻井さんは、私に気遣うように先に話し始めてくれて、目の周りをしわくちゃにして微笑んだ。
「驚ろきましたよ。そのバッジを持つメンバーの顔は、互いに知っていますからね。八人。時とともに、自然解散……という感じだったけれど。信正さん、お元気ですか」
「昨年、八十九歳で亡くなりました」
「──そうですか。ご病気で?」
「いえ。ある朝起こしに行ったら、ぽっくり逝ってました」
「信正さんらしいなあ。あの人、きっちりしてましたからねえ」
 それって、きっちりと言うのだろうか? 
「もうそんなに経ったんですね。信正さんと最初に会ったのは、私が三十で信正さんが四十の時でした」
 ってことは、やっぱり八十。……当たった!
「なんで歳のことを覚えているかと言うと、信正さん、自分が四十になってしまったということを酷く気にして入会して来たからです。私が十歳下だと知ると、ああ妻と同じ歳なんですね、羨ましい。と言ってね。奥様もお寂しいことでしょう」
「母は父より先に亡くなりました」
「そうでしたか。わからんものですねえ。実は、うちも妻が先に逝ってしまいましてね」
 ──と、言うことは。この出会いは、やはり。でもそれはないんじゃないだろうか。一緒にいられる時間が……というより、場合によっては、ほぼ介護生活……というより、そもそもの夫婦生活が。
「どうされました? そんなにしんみりと黙られてしまうと。私は気負けするたちではないので、それなりに人生を楽しんでいますよ。ははは」
「あの、すみません。そもそもこのバッジの意味というか、何が何だかわからないので、そこから説明していただきたいのですが」
「えっ? 知らないのですか。ならどうしてそのバッジをつけて、タツノオトシゴを食い入るように見つめていたのですか」
「そ、それはですね。父の形見を整理していたら、引き出しの中からこの素敵なバッジが。水族館に来て、あそこにいたのは、たまたまです。ほら、このバッジって水族館につけてきたらお洒落かな、と思って。で、バッジのことで声をかけていらっしゃったので、父の知り合いかしらと思って、娘だと名乗ったんです。そう、そうなんです。ええ」
 まさか、転生待ちでタツノオトシゴとなっている父の指示とは言えない。
「お父さんは何も? 『たつの会』のことはスミコさん、ご存じないのですね。私たちは、あなたの話はお父さんからよーく伺っていましたよ。それにしても……こんなに成長なされて。あの時のスミコさんがねぇ。信正さん、スミコがスミコがって。そりゃあもう可愛くって仕方がないって感じで。スミコが、と発する信正さんの声は、耳に残っていますよ。ところで、スミコさんって、どのような字をお書きするのですか。聞いたような気もするのですが」
「ことぶき、うまれる、子、と書きます」
「あああ。素晴らしい。まさに信正さんのお気持ちですな」
「あの……」
「申し訳ない。懐かしくて、つい。整理して最初からお話しします」

 辻井さんの話によると、「たつの会」のメンバーは、三十前後の男性ばかりの七人のグループだった。当時水族館で催された「タツノオトシゴの不思議を探る」というイベントに参加した男ふたりが意気投合したのがきっかけで、そこから近隣の友人などを誘って、結成したのだそうだ。メンバーの中には、特にタツノオトシゴ愛があるわけではなく、歳の近い男ばかりで騒ぎたいという者もいたという。既婚者もいたし、独身者もいた。当時辻井さんは新婚ほやほやで、タツノオトシゴ好きは少年時代からという熱心なメンバーだった。おそろいのバッジをつくり、月に二回は江ノ島の窓から海が見えるカフェに集まり、タツノオトシゴレポートを交わしたが、ビールに切り替えてからの雑談のほうが長かった。
会が結成されて、半年過ぎたころ、お酒が入っていつものように盛り上がっていると、隣のテーブルでひとりコーヒーを飲んでいた男が、
「ちょっと、すみませんが」
 と、席を立って近づいて来た。
「すみません。うるさかったですか」
 メンバーのリーダー的男性が、あわてて謝ると、
「今の話。今、話されていたことは本当ですか」
 目をギラギラさせ、上体を丸テーブルに突き刺すように乗り出して来た。怖くなった皆は一斉に身を反らしたので、牛乳に出来たミルククラウンみたいになった。
「今の話とは?」
 別のメンバーが、探るように言うと、
「その、タツノオトシゴを食べたら子どもができたって」
 顔は赤くなり、こめかみの血管は浮いていた。
「あの……うるさくて下品だったのでしたら、本当に謝りますので」
「違うんです。違うんです! どうか、その話を詳しく私に教えてください」
 それが、父だったのだそうだ。私が生まれる前の。
 当時にしてみれば父の結婚は遅く、三十八歳だった。最初は、男はまだ大丈夫。嫁さんは十(とお)も若いのだからすぐ授かると安易に構えていた。ところが四十になっても子どもは出来ない。これは、自分のせいではないか。自分がもっと若かったら、子どもがいたのではないか。真面目な父は、いったんその考えにとらわれると解決の糸口がつかめず、悩みのループから抜け出せなくなったという。そんなある日、隣の席から救いの会話が聞こえて来たわけだ。どうかお仲間に! すがる父に困惑していたメンバーも、恥ずかしながら……と、実直に語る年長の姿に、アルコールも手伝って、皆、感動。「力になりましょう」と、八人目のメンバーに迎え入れたのだと言う。

「なんとなく、わかって来ました」
 私は水滴だらけになったコーヒーのカップを持ち上げた。ゆっくりストローで啜ると、
辻井さんも同じように持ち上げて、口をつけた。
「ごめんなさい。辻井さん、話し続けて喉乾いちゃったでしょう? 氷が解けて薄くなってしまいましたね」
「いえいえ。私、コーヒーは薄めのほうが好きなんですよ」
 目の周りに、優しい皺が寄る。父には、こんな温かい仲間がいたんだ。
「当時は、不妊の検査とかそういう科学的なあれは、あまり日が当たっていませんでしたからねえ。ただ、知り合いの男がタツノオトシゴを食べたら五年振りに子どもに恵まれたって話は本当で。それを私たちがしていたら、信正さんが食いついてきたのです。確かにあれは精力剤であるし、男性不妊にも効きます。男性だけでなく、もちろん女性も。漢方薬ですからね。強壮剤とかにも入っていますし」
「えっ、そうなんですか。じゃ、あの、食べる人とか普通にいてもおかしくないんですね?」
「普通というか。まあ、場所によっては、水深三メートルくらいのところで大量に捕れますからね。食べる人は、食べるけれど、日本では食事的感覚ではあまり……。私たちはダイバーや漁師さんから譲ってもらったものを、独り身のメンバーの家で日に干して、信正さんに回していました。そこの家で、生を素揚げにしたりしてね。素揚げが一番旨いんです。その時は、私たちもビールと一緒に。信正さん、奥さんに秘密にしていらしたから、ここぞとばかりに食べてましたよ」
「どんな……味なんでしょうか」
「囓った瞬間は硬いのですが、噛むほどにカリカリとほぐれて全身食べられます。頭と体の皮はたいして味らしい味はしないので、塩を振ったりマヨネーズをつけて食べるとイケます。なんと言っても、内蔵ですよ。あん肝に似たこっくりねっとりとした味わいでね。ここが一番旨いし、精力の肝です」
「はあ。美味しいとは、意外です」
「不味そうな顔してますからね」
「美味しいと伺って、なんだかほっとしました」
「そりゃまた、どうして」
「──なんとなく。──父は、ご迷惑をかけてたんですね」
「とんでもない。楽しかったですよ。信正さんも、必死だけど皆と笑っていた。だから、奥さんが身籠ったと知った時、そりゃあ、メンバーは嬉しくってね。無事出産の報告までハラハラでしたよ。信正さんのあんなに幸せそうな顔を見たことがなかった。最初に会った時の鬼気迫る顔とは、別人もいいところでねぇ。実はうちの長女は、寿生子さんより一年早く出来ちゃってね。その時は、何だか申し訳なくって。だから尚更。可愛がられたでしょう。わかりますよ。寿生子さん、あなたは幸せものだ」
 私は立ち上がると、手前のフェンスに両手をかけ、辻井さんに背中を向けた。
「私は──私は、徹底的に縛られて育ちました。いろいろ制限をかけられたせいで、恋愛も結婚もしないままの、つまらない人生になりました。あれは危ない、そこには行くな、全部寿生子のためだ。厳しいのは愛しているからだ。お父さんのどこが間違っている。酷い父です」
 言っている間に、だんだん激してきて、口調が強くなるのを抑えられなかった。辻井さんは、黙っている。どんな顔をしているのか、怖くて振り向けない。海越しに見える展望灯台を睨みつけながら、こんなこと言うつもりじゃなかったのにと哀しくなった。
「寿生子さん」
 後ろで立ち上がる気配がした。隣に来るかと身構えたが、辻井さんはそのまま続けた。穏やかな声だった。
「そうでしたか。でもねえ。あなたまだ五十手前でしょう。百まで生きるとして、折り返し地点ですよ。なのに、何言ってらっしゃるんですか。恋愛でも結婚でもこれから好きにすればいい。信正さんはもういないのだから、この先の人生がつまらなくなる理由を彼に押しつけるのはおかしい」
 ゆっくり振り返ると、辻井さんもゆっくり頷いて顔をほころばせた。
「これまでのあなたの物語を変えてしまう力は、あなたの中にありますよ」
潮の香りをのせた風が、私を撫でるように吹き抜けた。
「そうそう。その笑顔」
 辻井さんに言われて、自分が笑んでいることに気づいた。そろそろお別れの時間だろう。昔話を聴かせてもらって、これ以上一緒にいる理由もないし。このまま会うことも無いのかなと思うとなんだか残念になって来た。三十二歳も年上の人と、どうこうとは思わない。父親みたいなものだ。でも、実際の父親よりは、十歳も若い。なくはないのか? いったい何を考えているのだ私は。そもそも辻井さんにそんな気は。「お友だち」の名刺は、どういうつもりでくれたのだろう。連絡先の無い名刺。お父さんたらもう、変な予言ばかりして。
 ♪う~みは ひろいな おおきいな~
 矢庭に辻井さんのポケットから、高らかな着信メロディーが流れ、私は飛び上がった。
「ちょっと、失礼」
 ケイタイの画面を見た辻井さんは、「あっ、もうそんな時間か」と呟いた。
「お時間とらせてしまって、すみませんでした。今日は本当にありがとうございました」
 頭を下げると、
「いやいや、待って下さい」
 メールの返信をするのかと思ったら、いきなり電話をかけた。
「おお。悪かったな。デッキまで来られんか。そうか、そうだな。わかったこれから行く」
 辻井さんは、コーヒーの蓋を外して、残りを飲み干した。
「捨てておきますので」
 駆け寄ると、
「一緒に行きましょう。丁度良かった」
 こちらの返事をきかずに、歩き出した。どんどん行ってしまうので、あわてて追いかける。八十とは思えぬ健脚である。
 出口手前で辻井さんが足を止めると、壁際にいた背の高い中年男性が、気づいた様子でこちらに近づいて来た。不思議そうな目で私を見ながら。
「息子の瑞人(みずひと)です」
 辻井さんが、彼の肩に手をかけてにっこりした。似ている。辻井さんを若返らせたらこうなるだろうという、感じのいい人である。
 急な展開に焦って、
「こんにちは」
 あわてて会釈をすると
「あ、こんにちは。親父、この方は?」
「私は──」
 言いかけると、辻井さんが被せるように、
「誰だと思う?」
 瑞人さんに、いたずらっぽい調子で笑いかけた。
「誰って……」
 顔をじっと見られた。彼の視線が上から下まで流れるのを感じて、なんだかこそばゆい。
「すみません。わからないのですが」
 瑞人さんは、私に向けて申し訳なさそうにちょいと頭を下げた。辻井さんは、この状況が妙に嬉しそうだ。
「驚くなよ。寿生子さんだ。磯田さんとこの、寿生子ちゃんだ」
 瑞人さんの目と口が、がばりと開いたと思ったら、
「えっ、うわっ、スミコちゃん、スミコさん! うわわ、どうしてさ。親父」
 激しく驚くところも、親子で似ている。それにしても──。
「あのぉ。何で私のことをご存じなのでしょうか」

後編はこちら ⤵ ⤵

#創作大賞2023

「公開時ペンネーム かがわとわ」