単なるハウツー本ではない 『ひとりでしにたい』感想
ドラマ化されるらしいけど、漫画版の感想です。
表層的には『ひとりでしにたい』はタイトル通り、孤独死や終活に関するハウツー本だ。また、当初のテーマにとどまらず、熟年離婚や介護、共働きにおける女性のキャリアなど、家庭が抱える諸問題を扱っている。本書で提示される各テーマへの知識は役に立つ。たとえば、「離婚後の財産分与では、妻が受け取れる夫の年金は厚生年金の半分のみ(婚姻期間中の分に限る)」や、「介護費用は親の貯金や社会保障制度を活用し、身銭を切らない」、「投資信託は高利回りであっても手数料を差し引くと収支はトントンになる」など、実践的で有用な知識が具体的に示されている。
しかし、本書はこのようなハウツー本的な側面だけでなく、「自己理解」というもう一つのテーマがあると考える。本作の主人公である鳴海は、「無垢で純粋な人」である一方で、「無神経で他者を傷つける側面」も持ち合わせた人物として描かれている。鳴海は一見、良い家庭で育てられ世間知らずだが、自分の趣味を楽しむ純粋な人にみえるが、その無自覚さゆえに他者を傷つける言動を繰り返していた。
たとえば、鳴海の家庭環境は母が専業主婦、持ち家があり、奨学金なしで大学に通わせてもらえたというものだ。これは一般的に見れば「中の上」程度には裕福な家庭環境と言えるだろう。しかし、鳴海はその自覚がなく、「それくらいフツーでしょ?」と、悲惨な家庭環境で育った那須田に無神経な言葉を投げかけてしまう。那須田は、この発言にキレて無言で立ち去った。
また、元彼と別れた経緯についても、鳴海は「どこにでもあるつまらない話」と軽く形容していたが、元彼は鳴海に対して強い恨みを抱いていた。鳴海は元彼と過ごす時間を惜しみ、たまに会っても「イライラして他にやることがあるんですけど?」という態度をとっていた。さらに、自分の愚痴は聞いてもらうのに、パートナーの話を聞かないというモラハラ的な行動を無自覚に取っていたのである。そして、元彼が別れを切り出しそうな気配を感じると、自分を守るために先手を打って別れを切り出した。
鳴海の真の邪悪な点は、これらの言動に対して無自覚であることだ。那須田にキレられなければ、自分の家庭が「フツー」だと信じて疑わなかったし、元彼への酷い仕打ちについても彼に指摘されるまで理解していなかった。悪意がなく人を傷つける人間ほど、やっかいなものはない。
しかし、物語が進むにつれ、ライフプランの知識を学ぶのと同様に、鳴海は他者を傷つけていた自分自身の行動にも気づいていく。例えば、弟が自分のせいで家庭に居心地の悪さを感じていたことは、他者からの指摘ではなく自ら気づいた。また、高卒である弟の妻に対する差別意識を認めることで、自身の内面を深く理解するようになる。
このような「自己理解」を重視する理由は、現代においては個人の自由が認められた結果、人生の選択肢が増えたことにあると考える。昭和的な世間体という圧力は薄れ、生涯未婚率は約30%に達し、結婚や子供を持つことが当然という価値観は日々弱まっている。しかし、その一方で、「人生を選択する必要」ができた。結婚をするか、子供を持つか、離婚をするか、といった選択を迫られる局面で、重要なのは「自己理解」だ。正しい自己理解がなければ、誤った選択をし、不幸な結果を招く可能性が高い。
作中では、鳴海が漠然とした不安からマンションを購入したが、これは失敗だった。鳴海自身も、自分には「都内の実家」や「人並み以上の教育」があるから、不安を紛らわすために、マンションを購入する必要はなかったと認めた。また、鳴海の母は、叔母に勝ちたいという無自覚な欲求から、熟年離婚を計画していたが、これが実現しても欲求は満たされなかったし、経済的・生活的にも困窮していた可能性が高い。こうした例からもわかるように、自己理解の不足は不適切な行動につながりかねない。
世間体から解放され、絆が薄れつつある現代だからこそ、自己を正しく理解し、他者と適切に関わる必要があり、自らの人生を正しく選択することも重要である。
さらに、ここで語らなかったが、フェミニズム的な視点も重要なテーマの一つだ。本書では、介護や子育てにおいて、女性が「なんとなく」その役割を負わされる現状が批判的に描かれている。介護については、女性が担うものとされ、子育てでも男性には「やらない」という選択肢がある一方で、女性にはその自由がほとんどない。