八月某日 SNSを日記代わりに使うな
冒頭、特大ブーメラン
ここ1,2年、SNSに日記をつけている。主にTwitterやNoteを利用しているが、つくづく便利なサービスだと思う。間違いなく日常的なアウトプットを格段に増やしてくれる道具だ。
一方で、これらはある危険をはらんでいるようにも思うのだ。
SNSの倫理によって、思考の枠そのものが狭められてしまう可能性である。
壁に耳あり障子に目あり
SNSでの発言は、必然的に不特定の他者に受け取られ、評価を下される期待をもってなされる。
例えばnoteでは、ハッシュタグ機能やユーザーの閲覧履歴をもとにした「おすすめ」機能などから、あるいはフォロワーや他記事での引用から、だれにでも文章を閲覧される可能性がある。いつ、どこで、だれが自分の言葉を目にするのかは、発信者からは一切確認することはできない。ただ、所在や存在が知れぬまま「そこに存在するであろう」読者に向けて、文章を発信するメディアである。
Twitterではツイートを非公開に設定することもあるが、それでも自分のフォロワー間では情報が共有されている。
そう深く意識はせずとも、他人の目を気にしてしまうのが人情というものだろう。この「誰かに評価されるかもしれない」、いやむしろ「誰かに評価されるであろう」という期待こそがSNSにおける発言の倫理である。
無論、この期待を満たすことがSNSの存在意義であり、メディアとしての持ち味でもある。これだけでは何ら問題ない。
それでも危ないと思うのは
わたしが問題として指摘したいのは、SNSを活用すればするほど、思考の言語化の機会をこれらのメディアに独占される恐れがある点である。
電子メディアにおけるアウトプットは、紙とペンを用いた記録や文書作成ソフトでの執筆よりずっとハードルが低いものだ。
ボタン一つで入力画面が起動し、すぐに文章を打ち込むことができる。
用いられるのは原則口語が一般的で、まるで「つぶやく」ように言葉を重ねるだけで言語化された思考として成立する。
ひとつひとつのアウトプットは短くあってもゆるされ、むしろメディアによっては少ない字数で完結することが歓迎される。
メモ帳に言葉を走り書くことと比べても、なおSNSが気軽なメディアだと言える。
この気軽さゆえに、あなたは他のメディアとの接触を自ら手放していないだろうか?SNSに日常を言語化する機会を奪われていないだろうか?
「否、そんなことはない。」と断言できるのであれば、あなたはSNSとうまく付き合えている人だろう。
少しでも後ろ指をさされる思いがしたならば、今一度立ち止まって見てほしい。
日常の言語がSNSに支配されてしまえば、結果としてあなたの思考は「人様に見せて恥ずかしくないもの」を「人様に見せて恥ずかしくないように」見せられる形をとるように自ずと指向されてしまう。
他人に言うのが憚られるような極めて個人的な、あるいは繊細な内心の動きが、形を持つ機会を失う。他人に見せびらかすのは恥ずかしいようなささやかな、ある意味では幼稚ともいえる思い付きが、可視化されることはなくなる。
もやウィンの進化論
言葉になれなかったアイデアたちは淘汰され、外面が良いものだけを厳選し言語化されたアイデアだけが残る。残されたアイデアは、輪郭をもつ「言葉」として再びあなたの思考に根を張り生き続ける。言葉にならなかった思考は、時の流れとともに忘却の波に押し流される。
言葉にされた考えは、前に進み続ける。
言葉にされなかった考えは、忘れ去られる。
その線引きが、他者の評価が関与する中で生まれるのであれば、それはあなたの本当に自由な思想とは言えないのではないか。
ソーシャルメディアはその「ソーシャル」こそがメディアの本質である。
それを顧みず単なる「メディア」として活用しようとすれば、かならずやあなたの理性は「ソーシャル」な秩序に規律されてしまうだろう。
なにを言いたいかというと
わたしの思考は、わたしだけのものだ。
他の誰のものでもない。
その処し方はわたしの勝手なのだが、だからこそ無意識のうちに内外から影響されることのないように気を配りたいものだ。
この観点から考えれば、やはりSNSを日記としてもちいるのはある種の危うさを孕んでいるように思われるのである。
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