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十一月某日 流れにあらがうこと、流れから抜け出すこと

あっという間に11月になりました、すっかり秋も深まってまいりましたが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
薄くなったカレンダーを見ては、時の流れの速さに驚く日々です。

さて今日は、そんな流れについての話。

便利な世の中であります。画面を撫でれば買い物が済み、次々に文字や動画が目に飛び込んできます。地球の裏側まで1秒もかからずに言葉を届けられ、遠く離れた知人でもタイムラインに行けばいつでも近況報告をすることができる。

今や空間的距離は技術の前に障害とならなくなっています。心理的距離だって、いつ何時でも近いままにしておけるでしょう。こちらから向かっていかなくても、あらゆる情報が、人間関係が、商品が、音楽が、われわれの頭に常になだれ込んできます。

「しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね」とはよく言ったものですが、ところが現代はそうもいかない。幸せのようななにかと、幸せの皮をかぶった不幸せと、明らかな不幸せと、あらゆるコトやモノが勝手に歩いてくる。毎日毎時毎分、やってくる有象無象への対応で精一杯です。「だから歩いてゆく」余裕なんて到底ない。結果として、「なんか知らんが時間があっと今に過ぎたぞ」「えっもうこんな時期!?」なんてことになる。カタチの見えないなにかをかわすことに、忙殺されているからです。

意に反して暴れ回る流れから自分のペースを取り戻して、しあわせに向かって「歩いてゆく」ためには、なにをすれば良いのでしょうか?
きっとそれは、不要なものを切り捨てることでしょう。
勝手にやってくる諸々からあえて自分を切り離すことで、初めて自分のペースを掴むことができます。まさに自らが置かれている場の流れに「抗う」のではなく、そこから「抜け出す」ことが、数少ない正解の一つだと思います。

現代は飽食の時代である、と言われます。人間ひとりのキャパシティを遥かに超えた食べ物が、止めどなく生産されて、回転寿司よろしく目の前に流れてくるわけです。もしその場にいたとして、すべての食べ物を口に詰め込むよう試みるのではなく、そもそもコンベアから離れるでしょう?面と向かって戦うのではなく、はなから逃げて居場所を移すことは、間違いなく役立つでしょうし決して恥ではありません。

なにも食べ物に限ったことではありません。
人々は文明の発展に乗じて、みなが千里眼を持ち、順風耳を備え、ヘルメスの靴を履いて生きるようになりました。あらゆるメディアが生を拡張し、我々の生活はいよいよ「便利」になっています。(ここでのメディアとは、所謂マスメディアとは異なるものを指します。為念。)
その結果、生の拡張たるメディアが生そのものを飲み込みつつあるのが、現代という時代ではないかと思います。
なんとかメディアを使いこなすよう工夫するのはもちろんです。しかしそれ以上に生の拡張を止めること、拡張を退歩させることこそが、速い速い流れから抜け出し、自分のペースを取り戻して泳ぐために、不可欠なアプローチであるように、わたしには思われるのです。

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