Someone is good, Someone is bad.
ぼくは人をすぐいい人扱いする。
(多分、性善説信者なのかもしれない笑)
誰かが悪口を言われていたら、「それは悪いことだと思うけど、こういう事情があったかもしないよ」と思うし
ニュースで罪を犯した人が逮捕されているのを見て「この人も、もっと違た家庭環境にうまれていたら違っただろうに」と感じる。
4年と少し前、友人と台湾に旅行に行ったとき、台北空港の荷物ターンテーブルで所持金を盗られた。自分のカバンがいくら待っても流れてこなくて、ターンテーブル脇になぜか降ろされて、チャックが開いていた。
幸いお金を2つに分けていたので、盗られたのは1万5千円程で被害は軽度ですんだ。
でもその台湾旅行が楽しかったからだろう、最終日にはぼくはごはんを食べながら「台湾て良い人しかいいひんなぁ~」と言っていた。
その時友人に「いやいや、初日にお金盗られてるからな笑」と言われて、ああそうだった、、と苦笑いした。
また3年前、スリランカで一人旅した際には、ぼくは夕飯を地元の食堂に食べに行った帰り、泊まっているゲストハウスまでの道のりが分からなくなり(しかも宿名も覚えてない)
夜8時ころに途方に暮れたことがある。しかも翌日は朝4時にゲストハウス前集合でサファリツアーを予定していたのでとてもまずい状況だった。
かろうじて宿名に「safari(サファリ)」が入っていた気がして、周辺の宿をワード検索して見つけた1件の宿にたどり着くと
そこは全く自分の泊まっているゲストハウスと違った。ただその宿のスタッフがとてもいい人たち(おそらく家族経営)で真っ暗の中、名前もわからないゲストハウスを一緒に
探し回ってくれた。そのおかげで2時間くらい探した末、自分のゲストハウスに帰ることができた。
翌日は彼らの優しさが忘れられず、彼らのゲストハウスに泊まることにした。スイカジュースをサービスしてくれたり、お互いのことを話したり、写真をとったり楽しい時間だった。
楽しい時間を過ごす中、ぼくの宿を一緒に探すと言いだしてくれた青年に、ぼくはまた台湾と同じことを言った。
「スリランカの人はいい人ばっかりだし、いい国だ。楽しい」と
実際にそう感じていたし、本心をぼくは話していた。
それにたいして彼は「Someone is good, Someone is bad.~」(いい人もいれば、悪い人もいるよ、それはどの国も変わらない)
と言った。
確かにそうだ。スリランカの人は優しくていい人、スリランカがすきだ。というぼくの言葉に偽りはないが
「〇〇〇はよい。■■■は悪い。」と一概に言い切ってしまうことは、彼の言葉を受けると、なんだかうすっぺらい言葉に思えてくる。
そういえば、日常の暮らしの中でぼくたちは物事を深く考えず断定的に決めつけているシーンが結構多いかもしれない。
この人とは気が合わない。
旅行にいってこの街は良かったけど、
この街はイマイチだったとか。
自分は計画的に物事を進められないとか。
自分にはこの仕事があってない。
自分はいつも中途半端な人間だから何か新しい
ことを始めるようとはしないでおこうとか。
でも実はそうでもないかもしれない。
日本では虹は7色だけど、他の国では2色だったり8色だったりするように。
こうだって決めつけてしまえば、それ以上考えなくてすむし新しい考えを理解したり、何かに挑戦する努力をしなくて済む。
でも、こうしかないっていう考え、生き方てやっぱり、薄っぺらい気がぼくはする。
「でもやっぱりこうかもしれない」というもう一つの可能性をいつも大切にしていたら、もっと豊かな毎日が広がってくるんじゃないかな。
起こると思えばなにか起こるし
変わると思えばなにか変わる。
彼の言葉がなんとなく今も心に残っているのはそう言いたかったからだと最近気づいた。