自己紹介
こんにちは野のゆり印です。
note歴は結構古く、2016年ごろから細々続けています。始めた頃、私は足繁くインドに通いながらヨガや瞑想を学んでいました。このページの前半は、そうしたテーマについて書いています。様々な道や技法を探究しながら、最終的に出会ったのは自分でもびっくりのイエス様の道でした。2022年の末のことです。これにより、過去のアイデンティティは一掃され、今はキリスト教(プロテスタント)の信仰を持ち、教会に通って、聖書学び、日々祈っています。
今の私の内的な風景は、インドに通っていた頃とだいぶ違います。180度違うと言ってもいいでしょう。当初はこのページをクローズし、新しく作り直そうかと思っていました。しかし、このまま継続する方が、内的な変化が如実に分かって面白いかもしれないと思い、そのままにしました。
私自身もずっとそうだったのですが、キリスト教というのはかなり誤解されているように思います。それは歴史的な出来事や既存の教会のイメージがそうさせているのでしょう。しかし聖書を素直にじっくり読み進んでいくと、私もまだまだ学び始めたばかりで偉そうなことは言えませんが、実にダイナミックで深い霊性に満ち溢れています。真に「スピリチュアル」な書物です。もともとスピリチュアルの語源は「スピリット: 聖霊」からきているので当たり前なのですが。
よく聖書は書き換えられているとか、キリスト教は真理を捻じ曲げて伝えているとか言われていますけれど、むしろそうした世間一般の思いこみが、聖書の中に息づいている真理を覆い隠しているように思います。
と聖書にもあるように、隠されたままのものはいないのです。私たちが素直に、まっすぐな気持ちで読む時、自分にとって一番必要な言葉が胸に刺さるはずです。遠くへ行く必要も、高いお金を払う必要もありませんし、選ばれた人だけが得られる情報でもありません。幼子のように素直になることだけです。自分もできるだけそのように素直に聖書を読みながら、感じたことを文章にしていこうと思っています。これまでの文章から、ヨガや瞑想好きでフォローしてくれた方はすみませんなのですが、これをきっかけに聖書を読んでみようかなと思っていただけたら幸いです。
私が過去に学んでいた瞑想やヨガ、ヴェーダンタや仏教などを否定するつもりはありません。瞑想もヨガも心身を整えるのに本当に助けになりました。そこで学んだ心や体の使い方は、今も自分の基礎になっているように思います。インドでの日々もかけがえのないもので、全ては必要なプロセスであったと理解しています。(このページに掲載されているインドの写真は全て旅の中で撮ったものです。)ただ、それが自分にとっては、心の渇きを真に満たしてくれるものではなかったというだけのことです。
以前、とある瞑想教師の方に初対面でこう言われたことがあります。「あなたはマインドより、ハートタイプの人だから、祈りを取り入れた方がいいよ。」その方は私の何を見てそう感じたのかは不明ですが、まんざら外れていなかったのでしょう。
もう一つ、これはいずれちゃんと書きたいと思っておりますが、ヨガや瞑想の道は非常に危うい部分もあり、しっかりと師についてストイックに学ぶ必要があると現在は認識しております。特にごった煮的なニューエイジの文脈に乗っかってしまうと、節操がなくなり、危険度は増します。間違った領域にアクセスすれば、人生を崩壊しかねません。私のヨガの師匠は時々、「心の扉を開け放しにするな、でないと誰かが入ってきてあなたの心を泥棒する。」と注意していました。
当時能天気だった私は「え、心の扉を開けるなってどういうこと?オープンハートっていいことなんじゃないの?」と思っていました。その危うさが逆に身に染みたのは、聖書を読んでからです。それまで私は瞑想したりマントラを唱えることで、無意識的に霊的な領域にアクセスしながら完全に無知でした。それ故に数年間の探究の中で、色々なものを失いました。そうした反省も少しづつ言語化していけたらと思っています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。