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忘れてはいけない日のこと②

【震災が残した影響】
阪神淡路大震災後、復興は進みこの数十年で神戸空港の完成などで街並みは変わり、震災前と比べて綺麗に整備され、震災遺構は各地に残されていますが何事も無かったかのような風景になりました。・・・表面上は。

しかし、見た目の風景は戻っても人はなかなか変わりません。街を行き交う人の流れが変わり、大震災の被災地ということで一時敬遠されることになります。「港町・神戸」の象徴だった神戸港は被害が大きく、特に物流関係は大阪港などに変更され他の産業とともに衰退することになります。当時、欧米系の外国人を見かける印象が減ったのもこの頃からでした。人口も、数年間は減少することになりました(現在は周辺の市も含めて、震災前より増加した市区が多くなっています。ただし、震災以降に住み始めた人の割合が多く、現在も震災前に回復しない区や元々の住民が様々な事情により戻りたくても戻れないという人が多いようです)。

【地震後に思ったこと。考えたこと】
関西在住なので、三宮等神戸の街に出かけることがあります。その時にふと思うことがあります。
「今こうやって街を歩いている人で、あの時のことを経験した人や知っている人、覚えている人がどれだけいるんだろうか」と。
この大震災を通じて一つの考えを持つことになりました。大げさな言い方になるかも知れませんが、「生きたくても生きられなかった人もいる。だからできるだけ生きる」ということを自分自身に深く刻まれることになりました。当時、被災地在住ではなく、友人等が特にいないのにも関わらず、です。今もこの想いは変わりません。

震災から年月が経つにつれて新たな課題も出てきています。中でも震災復興住宅の期限と記憶の風化が問題となっています。震災復興住宅については、期限が20年に設定されていたため、居住者と自治体との間での話し合いで条件に該当する人(高齢、要介護等)は延長された人もいますが、該当しなかった人も多くいます。現実的な話として、高齢になって半ば無理やり引越させるが正しいのか?と。杓子定規に「期限が来たから出ていけ」と言うのが本当に正解だとは思えません。問題の解決は相当難しいと思います。

私は直接の被災者ではありません。それでもこの出来事が、自身にとって大きなことだったと思います。これからも1月17日の年に1度ですが、これ以降に起きた地震災害(新潟県中越地震、東日本大震災(東北地方太平洋沖)、熊本地震、大阪北部地震、北海道胆振東部地震など)と併せて祈っていきます。黙祷。

―――――――この災害を忘れないために。関西に住む一人として。

※ 後から知った話ですが、震源地の淡路島や神戸市以外でも近くの明石市、西宮市、芦屋市、尼崎市、伊丹市、川西市、宝塚市、猪名川町の阪神地域や豊中市(大阪府)など隣接する市や町で文中で挙げた以外でもかなりの被害を受けた場所があります。
※ ある作家(故人)が、「大地震前に大勢の犬が団体で大阪方面に向かって移動してゆく異様な光景を見た」と後に新聞のエッセイで書いていたそうです。
※ 誰とは言いませんが、某キャスター(故人)が震災時に火災の煙を「温泉の湯煙みたい」と表現したのは未だに許せません
※ 写真は震災発生時刻の5:46分で止まっているマリーナ像(神戸市)。

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