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忘れてはいけない日のこと①
最初の投稿がこのような内容になるのは本意ではないですが、今日がその日なので。
【1995年1月17日―――――――】
あの日からちょうど25年。四半世紀が経ちました。今では遠い過去の出来事になってしまいましたが、都市直下型地震で当時最大の被害を出した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の日です。
これまでに経験したことがない強い地震が発生。地震直後に覚えているのは、最初神戸の震度が表示されなかったことです。私自身こんなことは初めてだったため、どういうことか分かりませんでした(10分くらい?後に「震度6」の表示)。地震後、交通網は寸断され数分ごとに続く余震、TVでは被災地の様子が映しだされていました。学校にいる間も当然余震が続き、時々強めの余震があった時は悲鳴のような声が響いていました。神戸方面から来ている先生たちは、少しの間来ることができませんということでした(当時の担任が神戸から来ている先生でした)。確かこの日、学校は午前中で終了し部活動禁止で強制帰宅になったと思います。
以降、しばらくの間震源地からは離れていたものの、余震であまり眠れず神経を使う日々が続きます。TVでは連日信じられない風景(火災で焼けた街、阪神高速の高架崩落や阪急伊丹駅やJR六甲道駅の駅舎倒壊、神戸市内のビル倒壊など)が連日映しだされ、観るたびにショックが大きくなっていきました。
【地震後に】
余震が少し落ち着き、JR神戸線がある程度復旧し大震災から1ヶ月ほど経った後、休日に神戸市内を訪れました。市内に入り、徐々にブルーシートがかかった家やテントが増えていきました。
そして、一番火災の被害が大きかった長田区に入った時の風景は今でも忘れられません。TVで何回も見ていたはずなのに、目の前の風景が信じられず、何か悪い夢でも見ているかのようでした。当時、新長田駅はまだ復旧前で徐行運転をしながらゆっくり通過していたため、余計にその時間が長く感じました。他に乗っていた周囲の人から「うわぁ・・・」というような声もあったと思います。兵庫区に関しても同様でした。
三宮駅に着いてからも、ショックが大きくあちこちで建物が倒壊したままでした。阪急三宮駅の神戸阪急ビルが崩壊するなんて誰も思いません。電車を降りてから、周囲が埃っぽかったことを覚えています。元町高架下では、一部の鉄骨(?)が剥がれたり落ちそうになっていました。
※ ②に続きます。この後投稿します。
※ 地震発生直前、これまで聞いたことがない音(地響き?)がしました。未だに忘れることはありません。
※ 当時、TVのインタビューで焼けた街を見て「戦争の時の風景」に例えている被災者の方がいました。ちょうどこの年は終戦から50年の節目でした。
※ 写真はマリーナ像の「阪神淡路大震災の記憶」(神戸市)